森琴石ひ孫「森 茂」氏より 貴重な多数の資料をご提供!!

2014年10月6日 更新

 

森琴石ひ孫「森 茂」氏より
 貴重な多数の資料・・・ご提供頂く
・・…貼り交ぜ屏風・書額・日誌・画帖・控帳・染付茶器・文鎮・印鑑 etc.…

前回更新の末尾に「次回は超トピックスをお知らせ致します」と、記述しましたが、森琴石ひ孫の「森 茂」氏が、9月の連休明けに多数の資料を携え我が家にお越し下さいました。
■資料は
<貼り交ぜ6曲屏風>・<書額>・<画帖>・<日誌>・<控え帳>・<茶器>・
<文鎮>・<ふくさ>・<木製盆>・<印章>・<美術関係の書物>など
多岐多数に亘ります。
■祖父雄二の三井銀行小樽勤務時代の<住所録>や、趣味の<俳句集>などもあり、住所録には「大隈重信」、我が祖母「梅子」の入江家の者がずらりと名を連ねている。
「小林一三」名は、銀行時代の親交者だった証拠となります。

■各資料の概要は下記に示します。
■各資料は、森琴石ホームページにて少しずつご紹介させて頂く予定です。

資料の概要
未発表の貴重な情報が多数
・・森琴石ホームページで順次ご紹介
■森茂氏は多数の貴重な資料を持って、我が家に来て下さいましたが、余りの多さに仰天、荷物を紐解き、つぎつぎに現れる資料に目を見張り、釘付けになる事もしばしばでした。
■当日の夜は思いがけない“大量の資料”に興奮してなかなか寝付けませんでした。
■森琴石の作品・資料を見るのは、この10月末で丸16年になります。
最初は何もかもが“ちんぷんかんぷん”状態で、文字読みの殆どを神戸市立博物館の成澤勝嗣先生に頼り切っていました。
■森琴石の作品や文字など少々慣れてきた事もあり、「初見」で人物名や内容をかなり読めるようになっていますが、「基礎」が無いまま行き当たりばったり方式でやってきましたので、森琴石HPにご紹介するには相当時間がかかりそうです。
■小画帖の3冊分は、茂氏の父弘氏がお付き合いのあった<漢文に長けた>方が翻刻して下さったメモ用紙が挟んでありますので、この分はすぐにご紹介出来ると思います。
■森琴石の“博物学“方面の絵師との交流が分かる画もありますので、ご期待下さい。
■日記は6割くらいしか読めませんので、特記する内容があれば<画像を添えて>概略でご紹介する事になりそうです。

■控え帳に及んでは半分も読めないところがあります。
■まだ少ししか見ていませんが、森琴石作品受注帳には 岐阜の<辻東山>、森琴石門下で七絃琴奏者としても名高い<永田淳治郎(永田聴泉)>等が頻繁に注文者として名が出、「戦捷紀念 鶴瑞」の出版人、出石の「志水與三」の名も有りました。
■以下、資料の極概略を記します。
■今、資料の人物名などを明かしますと、今後各資料を紹介する上での興味が半減しますので、さしさわりの無い程度でご紹介させて頂きます。

資料の概要
貼り混ぜ6曲屏風
・・・森琴石交流書画家による書画(中国著名書画家含む)
・・・・かなり大きな屏風で、揮毫者名は琴石周辺者が多い。

書額
・・・森琴石親交者による書(森琴石の朋友)
日記

・・・大正2年7月24日~大正3年4月23日
・・・大正3年4月25日~大正4年7月14日
・・・大正5年6月20日~大正6年4月16日
以上、3冊分は綴じ本仕立ての非常に分厚いもので、
以前飯田知子氏から提供頂いた日誌(綴じがばらけたもの)に比べ、凡そ10倍分の量があるように思います。


森琴石 日記

控帳
1:森琴石作品受注者控(氏名、作品名)
明治40年12月19日~明治41年12月31日
明治42年1月1日~明治43年4月18日(43年2月10日以降は左上端が虫食いにて小欠損) 

●以上、2冊分は以前飯田知子氏より提供頂いたものの20倍くらいの分量がありそうです。
以前の受注控えは(HPで一部紹介)プロの方に翻刻して頂きましたが、かなりの金額がかかりました

 

六日に 原田村 永田淳治郎の名
現在の大阪府豊中市原田)
受注帳

2:下書き帳
a 伝記
●履歴書の下書き⇒森琴石の伝記の元となる資料 ・・・
●他に師匠やなどの伝記の下書き

b 美術機関(美術協会・絵画会・博覧会)への“申請書”
●門弟名簿
●森琴石及び門下の出品願い

●出品目録・作品の解説書
●委任状
●辞令書

C  寄附金、美術書注文控え  

画帖
中・小・極小 計7冊
●森琴石交流文人(未発表の著名画家あり)
●森琴石門弟所蔵の人物帖…家系が絶えた門弟所蔵の画帖で、森琴石が<人物画>にも長けた事を裏付ける画帳と思います。
これまでの資料には無かった画家や中国人名が出ており、今後の森琴石調査に期待がかかる資料です。


画帖

茶器・文鎮・盆・印章
茶器は『森琴石作品集:論文編 地方文化と森琴石(槙村洋介氏)』にある窯元での作品がありました。
●大きな茶腕は、伊予で制作したものですが、森琴石調査で未だ出てこなかった場所で、今後伊予(愛媛県)での新たな足跡を知る手掛かりとなる作品です。
文鎮(竹形)、盆(木製2種類)は森琴石の画を使っての作品です。
印章も7種類ほどあり、印鑑頭の鳥獣の彫刻が面白く、高価な印材で作ったものと推測します。
『森琴石作品集』の印譜と重なるものがあるかどうか? 楽しみです。

  

 

森 茂氏について
  茂氏の妻の祖父=「月月火水木金金」の作詞家 高橋俊策氏
■森茂氏は夫隆太とは1歳年下で現在宝塚市にお住まいです。我が家は今から30年前、奇遇にも宝塚市の割に近いエリアに7年間住んでいた事があります。
■森茂氏は、朝日放送(㈱)勤務時代には、ディレクターやその他の部門で大変活躍された方です。
■現在は、趣味の音楽(合唱)や往年に築いた人達との交流等で退職後の生活を楽しんでおられます。
■高校時代には美術部に属し、なかなかの腕前で油絵を描いておられたそうで、画家森琴石のDNAを受けた方のようです。
茂氏の妻の祖父、高橋俊策氏は 海軍大佐で「月月火水木金金」の軍歌の作詞をした方として超有名な方です。

 

「森茂」氏との初対面、その経緯
・・森琴石HPも仲介の役目

■茂氏の父弘氏とはある時期、私共の両親(舅・姑)が森家の跡継ぎとして無責任な言動を行ったらしく、以来両家との親戚付き合いが疎遠となっていたのです。
■森琴石HP、ブログ【森琴石ひ孫「井上保氏」からの情報】では、父寿太(舅)の異母弟である井上保氏から寄せて頂いた数々の情報をお伝えして参りました。
■叔父井上保氏は3年前(2011年)にご逝去されました。
『森琴石作品集』発刊後、何か月も経たない頃だったそうですが、『森琴石作品集』出版を大層喜んで下さったと、長男の泰一氏からお手紙を頂戴していました。
■井上泰一氏は、森琴石HP【森琴石ひ孫「井上保」氏からの情報】をご覧頂いているそうで、その由縁もあり、今年1月末に我が家を訪問して下さいました。
太一氏ご夫妻が、筆者の出身高校の後輩である事も分かり、太一氏のお人柄が初対面ながら非常に親しみを覚えました。

■その泰一氏からの後押しもあり、今年3月和歌山県立近代美術館で開催された「版画を考える」展が開催されていましたので「曽祖父森琴石の銅版画を一緒に観に行きませんか?」という我が家の提案に快諾して頂き、美術館での初対面が叶ったのです。
■美術館の館長「熊田司」先生と茂氏は、卒業大学が同じで、共通の美術記者の知己者がおられるとかで話題にも事欠きませんでした。
■この一件もあり我が家に対して親しみを持って頂けたようで、
「森琴石の調査に役立てて頂けたら」と、この度森琴石の大量の資料を我が家に託して頂いたのです。
■先の井上泰一氏、この度の森茂氏からも森琴石、森家に関する情報を少し伺いましたので、下にその分を記述致します。

 

 

井上泰一氏・森茂氏からの情報
森琴石の事・森雄二の事など
●森家のルーツは岡山<美濃出身>の武士(泰一氏)

●岩本栄之助は身内だった(泰一氏・茂氏)
●全国型弟子は早逝
●明治後年に、辛亥革命で亡命中国人を世話
●雄二は小林一郎氏に可愛がられた(茂氏)
●森家:国債と農地改革で戦後は困窮
■祖父雄二は、多額の退職金の余剰金を「国債」に投じたが、戦後はそれらが価値の無い紙切れとなってしまい、農地改革で郊外での所有地は没収となり、森家の資産は無くなってしまったそうです。金策の為雄二が収集していた骨董類(森琴石の遺品では無い)をしばしば骨董店に持ち込んで売却していたとらしい。(泰一氏)
■森琴石の没後、森琴石の名を持続、或いは更に高めてくれるような<全国区として活躍できる弟子>は皆早死にしたしまった。(泰一氏)
辛亥革命後、日本への亡命人物を森琴石が世話をした(茂氏)
以前、「井上保氏からの情報 森琴石の事」で、森琴石が<亡命中国文人を自宅に匿った>と書きましたが、ずっと「胡鉄梅」などと思い込んでいました。
辛亥革命の頃と、胡鉄梅と交流した時期はかなりずれているる事、胡鉄梅は亡命する必要が無かったので「おかしいな?」と 疑問に思っていましたが、これでやっと納得出来ました。井上保氏も<政治的亡命者>と<色鮮やかな画を描く文人>とを混同されたようです。
●上記画帖、或いは屏風中に<亡命人物>が存在するかどうか?
辛亥革命後の
亡命人は、書画家では無いと思われますので、足跡を残す資料が無いかも知れないし、足跡を残すと琴石に迷惑がかかると考えたかも知れません。
辛亥革命での亡命中国人(まさか孫文は違うと思いますが・・・)は、今後早急に調べる必要があります。

■井上泰一氏より
9月に「草廬三顧図」を我が家に寄託して下さいました。

 

お断り
井上保氏への聞き取り」に 記述誤りがありました。
■中ほどの文章…「聞き取り 親族に広げる」のところ
【妹の由紀子さんは(聞き取り開始)当時既に鬼籍に入っていた方ですが、母「はな」が早くに他界したため、“妻に先立たれる運命の父” 雄次の為か、嫁がずに雄次のそばに寄り添い、父雄次の最期を看取った方】
と書きましたが、
由紀子さんは、父雄二の為独身を貫いたのではなく、<雄二が亡くなった時、気が付けば由紀子さんは未婚だった>との事です。

因みに祖父「雄二」を最後まで世話したのは、弘氏だったそうです。祖父雄二が亡くなった頃(昭和19年7月)、父母(舅寿太・姑米子)は第1子(隆太)出産を3か月後に控えており「親の面倒」を弟に委ねた(長男の務めを怠った))ようです。

森茂氏より
 その他の情報
●科学史研究家「吉田光邦」氏とは知己の間柄
●京都では森琴石は「書」が高く評価されていた
●大阪市立美術館の先生が森琴石を高く評価
8月21日更新したものに「科学史研究家 吉田光邦氏が、森琴石の銅版画を吉田氏の2つの書誌に取り上げている」と記述しましたが、森茂氏は吉田先生とは知己の間柄で、茂氏がディレクター時代に、ご自身が手掛ける番組に出演して頂いたそうで、吉田氏は森琴石を高く評価していたそうです。

森琴石HPで吉田光邦氏を取り上げたのはGoogle Bookで<吉田氏の2著書が森琴石の銅版画を使用している>との情報を得た事によります。
●余談ですが、私の実父(野村廣太郎)は昭和50年代「おはよう朝日」に出演した事があります。もしかするとご存じだったかも知れません。
■京都では、森琴石は「書」が非常に高い評価を受けていたそうです。
■大阪市立美術館の二人の先生の件は、9月2日更新分で取り上げましたが、これらは全く偶然であり、これも森琴石との強い縁の賜物と言えないでしょうか。

 

 

 

 

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