森琴石孫「井上 保」氏からの情報・・・森琴石の事

2013年7月17日 更新

 

暑中お見舞い申し上げます

異常気象の為か、日本列島が炎暑や豪雨に見舞われるなど、
甚大な被害が発生しています。
森琴石の調査に多大なご協力を頂きました皆様方や、
森琴石HPの読者様には、
これらの被害にあわれた地域の方があるかと存じます。

何分にも筆不精に加え日々の所用も多く、
個々にお訊ね出来ない失礼をお許しください。
被害を受けられました地域の皆様方には、心よりお見舞い申し上げます

 厳しい夏が今後まだまだ続いて参りますが、
皆様方にはくれぐれもご自愛下さいますようお祈り申し上げます。

 

 

前回(2013年6月29日)
森琴石孫「井上 保」氏かのの情報・・・森琴石の二人の子供に続きます。

 森琴石孫「井上保」氏からの情報・・・森琴石の事

 森琴石の孫井上保氏の書簡(一部口頭)には、森琴石についても多少の情報がありました。
情報量としては少ないですが、美術家森琴石として貴重な話題もありますので、ご紹介したいと思います。
井上氏の情報は、父雄二が存命の頃に聞いた話で、雄二が銀行勤務の頃は、雄二が多忙だった事もあり、父雄二を交えての団らんの機会は少なかったそうです。

和少ない団らん時に「琴石の事」を話題にする事は余り無かったそうです。
補足として、これまでの調査を踏まえての見解を少々記述させて頂きました。

 

銅版画は生活の為だった
  
版画の下絵を中国に輸出
一人前の画家として成立するまで、中国に輸出する為の<ぼたんや中国風景画>など、版画の原画(下絵)を作成していた。

版画の下絵とは<銅版>の事か?
前回、「景徳鎮などの焼き物の原図として利用されたのでは無いか?」と記述しました。
その後もいろいろ考えてみましたが、私共素人では全く判断がつきません。
森琴石が<下絵>を輸出したというのは疑問に思えるのです
何故なら、南画系統の下絵なら<中国人の方がずっと上手>と思えるからです。
“技術的に高いレベル“の<森琴石が銅刻した原版>、又はその銅版で刷った<印刷物=銅版画>では無かったでしょうか? 井上保氏の情報は<確たる証拠>がない為、それらも可能性があるように思えます。

 

有名な<亡命中国画家>を
   自宅の離れで世話をした

◍清朝の有名な画家が日本に亡命してきて、森琴石の家の離れに数ヶ月(半年位)滞在した。
◍御礼に絵を頂いた。かなりの本数の<花鳥図>などを曽根崎の自宅で見た事がある。
日本の画家とは違った構図と色彩だった。

亡命画家と書かれていましたので、この情報にもかなり興奮しました。
その後、森家から出た<月が瀬真景図>の跋文揮毫者たちがそうだと思い、あらゆる方面から調べる事となりました。全貌が判るまでかなりの時間と熱意で調べたのも昔日の思い出となりました。
亡命中国画家は<胡鉄梅>と思われる。色鮮やかな画としては、王冶梅との合作画「牡丹 蝶図」が東京の飯田家に一幅ありましたが、森家には胡鉄梅の画は<森琴石道兄先生 三十八歳小像図>しか残されていませんでした。その他の色鮮やかな多くの画は不明である。
◍胡鉄梅の亡命に関して=胡鉄梅は1896年日本と往復を重ねていた上海で、妻「生駒 悦(えつ)」の名義で「蘇報」という文芸誌を発行した。2年後「蘇報」は革命派に売却したが、政府批判記事を重ねた為、彼らは1903年に逮捕投獄された。「蘇報事件」と言われ、後に彼らは亡命した。
◍胡鉄梅は1899年6月に死去したので、事件の関係者で無いので、亡命者ではありません。(お断り:森琴石HP「平成16年10月」の文章は少し間違っています。)

◍胡鉄梅の情報は森琴石HPでも多数取り上げています(資料紹介:書簡等)。
尚又、国文学研究資料館の教授「陳 捷」先生が、森琴石と胡鉄梅などの交流を論文『1870~80年代における中国書画家の日本歴遊』 で紹介して下さっています。(森琴石HPトップ頁、左下方をご覧下さい)

 

息子「森雄二」の転勤先で画活動
前回で記述しましたが、井上保氏の話しでは、広島の他、下関(赤間石)でも画活動をしたとの事です。

 

毎正月、門下への引き出物を
   
小幅画100本描いた
その時期や期間は不明。
※ 森琴石に関する伝記では、門弟が数十人とあるが、これは明治30年日本美術協会へ提出した時点での門弟数と思われる。その後門弟数は増え続け、短期や地方で学んだ者を含めると100人にはなったと思われます。

 

息子「森雄二」が経済支援(※前回記述。その他詳細省略)

 

 

年に一度「森琴石の絵画」を中心とした茶会を開催(※前回記述)

 

淡白な金銭感覚(※前回記述)

 

横山大観、下村観山が琴石の自宅に宿泊
 御礼に小品を描いた

横山大観は全国を漫遊している途中で立ち寄ったそうです。
◍「日誌1:舩田舩岳の日誌」にも出ていますが、明治36年「第5回内国勧業博覧会」が大阪で開催されました。「大村西涯」や「天岡均一」等の同校出身者と出会っている記述があります。
◍森琴石門下「舩田 舩岳(ふなた せんがく」は、東京美術学校で横山大観と同期生だった。
舩田舩岳は生来身体が弱いので教職者となったが、大観とはずっと交流があり大画伯として大成するまで大観の画の購入者として横山大観に協力していた。
購買した作品は相当な数だったそうですが、残念ながら舩田舩岳の身内が“金銭的な問題を抱え”家族に無断で持ち出して売却してしまったそうです。

◍大観と森琴石は気心が知れた仲でもあったようです。
因みに大観の父は水戸藩士酒井捨彦と言い「地図」作成者としても知られ、その方面でも森琴石とは知己だった可能性があります。
◍下村観山は「第5回 内国勧業博覧会」時に、森琴石を訪問したと思われ、大観と一緒だった可能性がある。

 

「画の相場の釣り上げに加担して欲しい」
    申し出た骨董商の依頼を断る
どこの骨董商かは不明だが、恐らく森琴石の作品を相当数持っている画商、又は斡旋人と知己の可能性あり。このような事は琴石が最も嫌う事である。

 

竹内栖鳳の売り出しに成功した京都の美術商
 
次は大阪の<森琴石>に・・・と
   森琴石を訪問するも
鰾膠(にべ)無く断
竹内栖鳳の画は、さまざまな商品にと応用されていったそうです。

◍作品のジャンルが多彩な森琴石は、京都の美術商の次なる<ターゲット>となった。
美術商は森琴石の自宅を訪問し、商品化の計画を告げたが森琴石はそっけなく断ったそうです。森琴石の資料には「画稿・学稿」らしきものが残っているので、何かにする予定があったのかも知れない。恐らくそれ以前から、何か森琴石が最も嫌うような事柄が周辺に起こっていたのだろうと推測します。
◍上2つの件でもわかるように、森琴石は骨董商や京都の大手美術商からかなり恨まれたようだ。これらの件は、その後の<美術界での森琴石を苦境に導いた>原因の一つになっていった可能性がある。

この件に関連する事
森琴石調査中に<森琴石らしき目のぎょろっとした痩せた老人>が天井から逆さ吊りにされている「漫画風の巻物」を某所で拝見しました。
巻物には<ふくやかな若い女性が陵辱されている>姿も描かれていた記憶があり、後に森琴石の弟子「吉村 清琴 」では無いか?と、思った覚えがあります。
巻物を見た折、非常に不愉快というか、余りにもその描写に驚いて写真担当の夫に「写真を撮って!」とも言わなかったと記憶しています。夫も撮ろうとしませんでした。
若い画家連中が料亭で気炎を上げ<気に食わない連中をやっつけている>のを漫画風に描いた巻物でした。

◍「平成23年3月【3】」で記述していますが、文豪志賀直哉は、森琴石の事を<俗気のない、好意の持てる画家である。只穏やかすぎて・・・・>と書いている。志賀直哉はこれらの森琴石の行状を知った上で「俗気が無い」と書いたのでは無いでしょうか。「関連資料:絵画清談記事」にも、森琴石の実直な気性を読み取れる内容が記述されています。
その穏やかすぎる森琴石が<怒る>のは、余程の事と思えます。

 

引っ切り無しの揮毫依頼(※前回記述)

 

 

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