森琴石孫「井上 保」氏からの情報・・・森琴石の二人の子供

2013年6月29日 更新

 

「井上保」氏からの情報…森琴石の二人の子供

 ■森琴石は、森琴石の2番目の妻「ゑい」との間には、長男「雄二」と長女の「昇」の二人の子が授かった。
■琴石は最初の妻「啓」との間に「磐之助」が授かったが、出産後間もなく妻子は死去。雄二という名は、森琴石にとっては<次男>である事から「次」や「二」にしたと思われる
■森琴石HPでは「森 雄二」や「森 雄次」を使用しています。
明治の終わり頃「雄次」から「雄二」に変えたようだ。(下方の三井銀行の辞令参照)
文書類には たまに「雄治」と書かれている事もある。
■雄二については情報量がかなりあります。
井上保氏からの手紙を下に<雄二の情報>をご紹介します。
その後の調査により多少誤りもありましたので、 にて補足させて頂きました。
■情報の中には<版画の原画を中国に盛んに輸出していた>等、興味深い内容が含まれていました。
因みに井上氏は、森琴石の銅版画はこの<中国への輸出版画>だけだったと思われていたそうです。我が家から送った「有馬の名宝」その他の資料から、地図や辞書類、翻訳本の挿画までしていた事は全くご存知では無かったそうです。

 

森琴石孫「井上保」氏からの情報(一部口頭)

長男「雄二」について

早くに独立
 銀行で寮生活
  琴石を経済的支援をする

◍明治4年9月6日誕生、5歳で寺小屋に入る
 :私塾と思われる。塾名は不明。
◍明治13年10月(9歳):祖父森琴石の縁で、三井銀行大阪支店に小僧として入る。
当時、三井では小僧は採用しておらず、原則として三井銀行と取引のある船場の長子を10歳より16歳まで銀行の宿舎に預かり、一人前に育て上げ実家に帰すという制度があった。

(祖父森琴石は画家として独立するまで、中国に輸出する「牡丹」や「中国風景」の版画の原画の作製をしていたと聞いている)
森琴石の商売は、船場の商店のような大規模なものではなかったので、そのまま銀行に残り、小僧より手代へと昇進していった。

 版画の原画(銅版画)の中国への輸出について
 <景徳鎮>のデザインにも使用された?

 ◍この情報にはかなり興奮しました。
 ◍井上氏からの手紙を某先生にお見せしたところ、「
銅版で刷った印刷物を壷などの陶器に貼り 
 
け、それを窯で焼くと、銅版画の模様が浮き出て、それに色づけする方法があったそうだ」と、教え
 て頂きました。
 森琴石の銅版画のデザインが、陶器の模様付けに使われていたと仮定するならば、
 中国は清の時代、精密な<花鳥、山水、人物>などの「焼き物」の中には、森琴石の精緻な銅版  
 画を使用した<何らかの作品類>がある可能性があります。
 
しかし乍ら著作権は<原画の値段>に含まれていたでしょうし、陶器のデザインに使用していた
 ならば、窯で焼いてしまうので証拠は残らない。

 この件については、輸出先が中国という事で、どのようにして調べたら良いか皆目見当もつきませ 
 ん。

 ◍井上氏からの手紙は、コピーして学芸員の先生方にお渡ししましたが、この件については余り関
 心を呼ばなかったようで、そのまま忘れてしまいました。今回この文章を書くに当たり、何か情報   
 が無いかとネットで
探したところ、「景徳鎮」のサイトで、中国ではこの手法が良く使われていたと
 いう内容が出て参りま
した。日本でも使ってしたそうです。
 以前にも見た記憶がありますが、その頃は、他の貴重な情報が次々と出てきた為、この一件は  
 もうう頭の中からく無くなってしまいました。
 その後中国美術の研究や日中学術文化交流の研究者の方々に、森琴石研究に多大なご協力を
 頂きましたが、この情報はとうとうお知らせ出来ずじまいでした。
 今この事が少し残念に思われます。
 森琴石の<中国への輸出の版画>は、この景徳鎮のデザイン画としても利用された可能性があ
 ります。
 

★銅版画と陶器との関係については、森琴石が砥部焼きや美濃焼きの窯元家とは相当親しく交
   わった事実がある。

 万国博覧会への陶器の出品等で、森琴石の精緻な原画が関わっていた可能性も捨てきれない。 
  
美濃焼き=平成14年9月http://www.morikinseki.com/chousa/h14.htm
         平成21年4月http://www.morikinseki.com/chousa/h2104.htm 他多数
  
砥部焼き=平成16年12月http://www.morikinseki.com/chousa/h1612.htm 他

◍19年2月、本採用される。広島や下関、小樽にも転勤。東京本店に勤務した時、あなた方の祖母(注:梅子の事)と結婚したようだ。
転勤先の広島には森琴石も付いていった。
森琴石の絵が広島方面にはかなりあると、
雄二から聞いている。
その後大阪支店の三役として帰り、曽根崎に住み、先の戦争が始まるまで住んでいた。
 
:雄二の残した銀行の辞令書から、赤間関⇒茨城(大阪)⇒広島⇒小樽⇒東京⇒大阪西支店
 へと転勤した。
 
本採用から12年後の明治31年9月、広島への転勤時には「広島支店出納係長蒹小口座預金係長  
 申渡」と<辞令状>に書かれている。
 
小僧出身の生え抜きの銀行マンとして着々と昇進していったようだ。
 
大正10年には<勤続40年恩給一時金及び同年金>として合計3万円もの給付を受けている(現代換算で3億円)。勤続40年を迎え依願退職した。

赤間関出張店辞令        広島支店赴任辞令        満40年勤続恩給一時金
(明治19年7月16日)      (明治31年9月1日)       (大正10年6月15日)

赤間関 辞令 広島転勤 辞令40年勤続恩給

◍勤務先で知己となった「小林一三」から、箕面電鉄経営への参入を強く勧められた。
◍定年後、三井傘下の汽船会社かどこかに勤務を勧められたが、森琴石歿後間もない頃で、諸々の整理に追われていた事もあり辞退したという。
◍父雄二は、祖父琴石の為に、今の富国生命の東側にかなり大きな家を購入し、琴石に提供した。
◍其処に画室や弟子の教育、門人の教育に当てていた。
◍祖父琴石は大正10年2月に死亡、自分は9年7月に生まれたので、祖父の事は殆ど知らない。 
◍父雄二の話しでは、曽根崎の家には、琴石の絵は「月ヶ瀬真景」と、幅が1,5米程の大きなもの2幅しか無かった。幅の大きな絵の方は、父が買い戻した。(かなりの高額だったので)購入後、父雄二はその絵が1万円で売れたという夢を見たそうだ。
 
:森家には森琴石の画は数点残されていたが、1,5米幅の画は我が家には無い。
継母「ヤス」とは不仲だった。
遺産相続の際、雄二には余り渡さなかったそうです。
 
註:森家に琴石の作品、森琴石が蒐集した貴重本から古画、骨董に至るまで、森家には僅かし 
 か残されていない。これらはヤスと不仲だった事を如実に証明している。

 鯖江での「森琴石 第五回忌遺墨展」には、雄二が出席していない事も、「ヤス」が自身の身内  
 
ばかりに森琴石の遺品を配慮した事とも関連がありそうだ。
 私的な感想
以前から不思議に思っていた事があります。琴石は教育に関心が深く教育の必要性を知る立場から、自身も教科書や漢籍辞書等の著者、編集人として関わってきました。大阪には慶応義塾の大阪分校が出来ており、琴石は雄二にもそのような所で教育させたいと思っていたはずである。
雄二が、私塾から更なる高等教育機関に行かず、銀行への道を歩んだのは、このヤスとの不仲が原因だったようだ。もし実母の下で育っていれば、雄二の教育環境はかなり変わっただろうと思う。
雄二は経済人としても かなり能力があったようですが、いくら才能があったとしても<小僧上がり>では出生に限界があります。
琴石の画業に経済的支援を多大に行なった雄二ではあったが、雄二が「ケイオウ」当りに進学していたいたならば、又琴石の画業にも別の影響力があったと思えるのです。

琴石は、先々の注文が絶えず入り、絹と手付金を預かっていた為、自分の家のものを描く余裕が全く無かった。
◍父雄二の話しでは、琴石の死により「絹」はそのままお返ししたが、手付金が6千円もあり、手付金は既に使っていたそうで、雄二が全て返却したという。
◍一年に一度、森琴石の絵画を中心に「茶会」が催され、茶席が幾つも設けられ、父雄二も茶席の亭主役を持たされて困ったような事も言っていた。
註:茶会の様子は、平成19年9月【1】注1、注2、注3の「薔薇栽培新書」の中<薔薇陳列会 大阪>にて、森琴石自宅での茶会の様子が少し窺えます。
◍父雄二は、銀行のボート部の選手でコックを務めていた。
◍字が非常に上手で、銀行では祐筆係を兼務、三井家の婚礼の目録並びに釣書を書いた。
◍頭が良く、社内の日歩計算の全国大会では毎回優勝していた。
自分で独自の計算方法を考案したそうだ。
■森雄二が、小僧時代に共に寮生活をした仲間には、船場や周辺の商店の大旦那や企業家になった人が多いと思われ、雄二との縁で、森琴石の作品を所蔵した人もあったに違いない。
森琴石HPではまだ少ししか紹介出来ていませんが、昭和2年に開催された「森琴石第七回忌追悼展覧会」の図録『森琴石翁遺墨帖 乾坤』での作品所蔵者には、船場や周辺の大商店の経営者がかなり含まれている。しかしそれらの方々が三井の同僚だったかどうかは不明である。
『遺墨帖』での
作品所蔵者には 現存する著名な商店もありますので、いつかご紹介出来ればと思っています。
■森家には、祖父「雄二」が残した銀行時代の写真がかなりあります。
雄二が転勤する際には同僚や上司などの写真を交換したと思われ、親交した同僚の家族写真もかなり残っている。
特に広島では戦災(原爆)で焼失した事も多いと思われ、雄二の残した広島での写真は貴重な記録写真となるかも知れません。
    「平成20年7月」「平成20年8月」などをご覧下さい。
■森琴石孫「井上保」氏からの情報は、当HPでは折に触れて記述しています。
森琴石HP,トップ頁中央下“Google カスタム検索機能”にて「森 雄二」や「森雄次」、「森 雄治」などでご検索下さい。
■祖父雄二は、祖母「梅子」の歿後5年後、雄二は東京の「下島はな」と再婚。
我が亡父寿太の異母弟妹「宏」「由紀子」「保」が誕生。
下島家は興味深い家柄のようです。下島家については「井上保氏からの情報・・・その他(仮題)」で少し触れる予定です。

 

長女「昇 しょう」について
昇についての情報は非常に少ない。

◍雄二には妹がおり、16歳で東京の堀木家に嫁ぎ、3男3女に恵まれた。

:東京では無く四日市の堀木氏。後の調べで、堀木家は四日市の北部の、昔からの名家だそうです。昇は4男4女を儲けたが、1男1女は乳幼時に死亡し、3男3女となった。
◍私(保氏の事)が知っているのは、東京の斉藤家に嫁いだ「加津子」さんと、長女で「竜野家」に嫁いだ高子さんの二人だけである。
:斉藤ではなく西藤。加津子では無く「加津」。竜野では無く「辰野」。

■「昇」については、後に「加津」の次女「飯田知子」さんから多少の情報を頂きました。後月別項で記述させて頂く予定です。

■森琴石HPでは、珍しい森琴石が中国風の装いで写した家族写真の中に、和服姿の「昇」の子供時代の写真を紹介しています。家族写真(琴石中国風)

             平成22年8月【1】森琴石の《中国風スタイル》もご覧ください。 

■『森琴石作品集』では、当時東京写真美術館課長の「岡塚章子」先生が、森家の写真類
を検証、執筆して頂いた「森家所蔵写真についての考証」というタイトルの論文の中に、継母ヤス、兄雄二の3人で写した写真が挿入されている。この写真は、明治12年大阪天満神社内 亀池「谷川写真館」で撮影した<ガラス湿版写真>である。
■岡塚先生は、上記で記述した「雄二」が残した銀行関係の記念写真についても<撮影場所、被撮影者(氏名)>などを分類して検証して下さっています。
学術的に高度に考証して頂いていますので、私共素人が知らない事ばかりで、非常に興味深い内容と思われます。ご興味のある方は、是非お読み頂けたらと存じます。

 

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