『戦捷紀念 鶴瑞』の揮毫者と森琴石

5月23日 更新

 

前回 5月12日更新
仙石政固、森琴石らが揮毫『戦捷紀念 鶴瑞』の概要」の続きです。

 

 

『戦捷紀念 鶴瑞』 揮毫者と森琴石     

『戦捷紀念 鶴瑞』 への揮毫者
日下部東作 小沼翠山 東久世通禧 櫻井 勉 東郷平八郎 川村景明 上村彦之丞 
鍋島直大 鍋島夫人 松方正義
加藤弘之 小野湖山 田能村直入 金井之恭 永坂石埭  日下部鳴鶴 上田耕沖 花之本聽秋 結城蓄堂 森 琴石 松方東海 東久世竹亭 杉孫七郎 仙石政固 藤沢南岳

 

揮毫者と森琴石との関係は?
●『戦捷紀念 鶴瑞』を編集・発行した「鶴山保勝会」は、どのように人選をしたのか?
●これまでに森琴石やその周辺を調査した事から、揮毫者と森琴石との関係を分類してみようと思います。

森琴石の親交者
上田耕冲(うえだ こうちゅう)
1819-1911江戸後期-明治時代の画家。
文政2年生まれ。上田耕夫の子。大坂で長山孔寅(こういん)にまなぶ。死の1年前に大阪天満宮 
に襖絵(ふすまえ)「鷹狩と雪中老松」をえがいたという。明治44年1月21日死去。93歳。京都出
身。通称は万次郎。 ―コトバンク より―

森琴石が尊敬した人物で、「平成23年6月」に記述のように親しく交わった。

小野湖山(おの こざん)
1814-1910 幕末-明治時代の漢詩人。
文化11年1月12日生まれ。梁川星巌(やながわ-せいがん),藤森弘庵(こうあん)らに師事。三河 
(愛知県)吉田藩につかえ,安政の大獄で幽閉される。維新後官吏を短期間でやめ,詩人として活
躍した。明治43年4月10日死去。97歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。本姓は横山。名は長愿。
通称は仙助,侗之助。別号に玉池仙史など。詩集に「湖山楼詩鈔」など。

森琴石が尊敬した人物で、森琴石の周辺者多数と親交。
森琴石HP-トップ頁、中央下にある<Google検索機能>でご検索下さい。

          
日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)=日下部東作
 
1838-1922 明治-大正時代の書家。
 天保(てんぽう)9年8月18日生まれ。もと近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩士。明治2年太政官大書 
 記官となり,12年辞任。13年清(しん)(中国)の楊守敬(よう-しゅけい)が来日すると巌谷一六(いわ 
 や-いちろく)らとともに漢魏六朝(かんぎりくちょう)の書法をまなび,六朝書道とよばれる新書風をう
 ちたてた。大正11年1月27日死去。85歳。作品に「大久保公神道碑」。本姓は田中。名は東作。 
 字(あざな)は子暘(しよう)。

森琴石が尊敬した人物で、「平成17年3月」にあるように 交流資料も多数あり。

杉孫七郎(すぎ まごしちろう)
 1
835-1920 幕末-大正時代の武士,官僚。天保(てんぽう)6年1月16日生まれ。長門(ながと) 
 (山口県)萩(はぎ)藩士。文久元年幕府の遣欧使節に随行。維新後,宮内大輔,枢密顧問官などに 
 つく。大正9年5月3日死去。86歳。周防(すおう)(山口県)出身。本姓は植木。名は重華。
 字は子 華。号は松城,聴雨など。通称ははじめ徳輔。

森家の合作画帖に書の揮毫あり。
森琴石は長三洲西嶋青浦福原周峰 など長州の知己が多い。
森琴石HPトップ頁中央下にある<Google検索機能>で、キーワード「長州」でご検索頂きますと、多数出てきます。        

田能村直入(たのむら ちょくにゅう)
 文化11.2.15 (1814.4.5)~明治40.1.21 (1907)
 明治期の南画家。豊後国竹田(大分県竹田市)生まれ。本姓三宮,幼名松太のち伝太。9歳のと 
 き,田能村竹田に入門し,南画と唐詩選を学ぶ。さらに国学,陽明学,武術などを幅広く修学,竹田に
 その才を愛され,田能村の姓を継いだ。竹田没後,南宗画で家を興し,堺,大坂に住む。明治1
 (1868)年京都に移り,以後名を小虎,号を直入とした。同13年京都府画学校設立とともに,翌年そ
 の初代摂理(校長)となり,24年には自ら自宅に南宗画学校を開いた。近代の南画は京都で継続
 的発展をみたが,直入はその明治期の中心的人物であった。 
   ―(佐藤道信=朝日日本歴史人物事典)― より
森琴石が尊敬した人物で、親しく交わった。
平成22年6月 ・ 同7月」 など多数記述あり。

 藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
人物伝など森琴石HP 師匠先輩:藤沢南岳 を参照ください。

森琴石とは同時期を生きた人物で、互いが歿するまで親交を深め、森琴石とは朋友関係にあった。

 

 森琴石の周辺者
  (近い関係、知己・面識があると思われる関係)

金井之恭(かない ゆきやす)
1833-1907 幕末-明治時代の尊攘(そんじょう)運動家,官僚。

天保4年9月18日生まれ。上野国(群馬県)佐位郡島村、金井烏洲(うしゅう)の子。
慶応3年(1867)討幕をくわだて投獄されたが,新政府軍に救われ,東北戦争に加わる。
維新後,内閣大書記官,元老院議官,貴族院議員。日本書道会会長。明治40年5月13日死去。75歳。
字(あざな)は子誠。通称は五郎。号は錦鶏。   ―コトバンク より―

 金井之恭の父“金井烏洲”と森琴石との関係は未知であるが、金井烏洲が月ヶ瀬を愛した事、頼山陽と交わった事等、知己であった可能性が高い。

 鈴木松年(すずき しょうねん)
1848-1918 明治-大正時代の日本画家。
嘉永元年6月14日生まれ。鈴木百年の長男。幼少のころより父にまなぶ。
明治14年京都府画学校の教員となる。人物画を得意とし,いま(曾我)蕭白(しょうはく)といわれた。内国勧業博覧会などで受賞。上村松園の最初の師。大正7年1月29日死去。71歳。京都出身。名は賢。初号は百僊。
京都府画学校の教師を務め、田能村直入が校長だった。

永阪石埭(ながさか せきたい)
1845-1924 明治-大正時代の医師,書家,漢詩人。
弘化2年9月生まれ。漢詩は森春濤(しゅんとう)門下の四天王のひとり。明治7年ごろ上京し,神田お玉ケ池の梁川星巌(やながわ-せいがん)旧居跡に医院玉池仙館を開業した。書もよくし,石埭流といわれた。晩年は郷里名古屋にもどり,大正13年8月24日死去。80歳。本名は周二。

※ 森琴石の周辺には江馬天江・忍頂寺聴松・宇田栗園・大沼枕山・股野達軒など梁川星巌に学んだ人物が多い。
(調査情報:平成19年5月平成20年2月【2】注3 画家小伝★会員以外に南画同士會が認める書画人 など)

鍋島直大(なべしま なおひろ)
1846‐1921(弘化3‐大正10)
維新期の佐賀藩主・藩知事・侯爵。幼名淳一郎のち直縄・茂美。鍋島直正の長男。東京生。藩政刷新に努め、藩内の殖産を進め仏の万国博に有田焼を出品、また戊辰戦争では藩兵を東北に派遣した。維新後、議定・外国官副知事等を経て英に留学。帰国後、外務省御用掛・伊駐在公使・元老院議官・皇典講究所長等を務めた。大正10年(1921)歿、76才。 
―思文閣美術辞典 より―

森琴石の長男“森雄次”の妻梅子の実家入江家は、代々佐賀藩鍋島家の家臣だった。
「森琴石紹介:係累人物http://www.morikinseki.com/kinseki/keirui.htm」他、多数記述しています。

東久世通(ひがしくぜ・みちとみ)
江戸末期から明治初期の公卿(くぎょう)、政治家(1833-1912)。
尊皇攘夷論者と
して活躍した急進派の公卿で、七卿落ちの一人。 維新後、貴族院副議長・枢密院副議長などを歴任。 ―新世紀ビジュアル大辞典 より―

七卿落ちの一人“錦小路頼徳”は森琴石の儒学の師匠妻鹿友樵と親しかった。
        妻鹿友樵は“錦小路頼徳”の養父“錦小路頼易”に、医学を学んでいた。
調査情報「平成17年2月■2番目」などに記述     

 

松方正義(まつかた まさよし)
1835-1924 
明治-大正時代の政治家。天保(てんぽう)6年2月25日生まれ。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。パリ万国博の事務局副総裁となり,明治11年渡欧。14年以降大蔵卿,蔵相として紙幣整理,増税の松方財政を推進。また日本銀行を設立し,金本位制を実施。24年,29年の2度内閣を組織し,蔵相をかねた。日本赤十字社社長,枢密顧問官,内大臣を歴任。後年は元老として力をふるった。大正13年7月2日死去。90歳。号は海東,孤立。 ―コトバンク より―

森琴石の雅友「大村楊城」は、元薩摩藩士“高島鞆之助”の祐筆だった。

“高島鞆之助”は、第一次松方内閣で陸軍大臣を務めた。

結城蓄堂(ゆうき ちくどう)
1868-1924 明治-大正時代の漢詩人
明治元年11月10日生まれ。藤沢南岳,小野湖山らに学ぶ。明治22年自由党にはいり各地を遊説。30年台湾総督府につとめ「台南県誌」を編集。のち茗渓吟社,月池吟社を創立。大正7年雑誌「詩林」を創刊した。大正13年10月6日死去。57歳。但馬出身。本名は琢。字は治璞        
―コトバンク より―


藤沢南岳、小野湖山に学んでいる事から、森琴石とは知己の間だったと思われる。

 

出石の人・・森琴石の養父森猪平は出石藩仙石左京の家臣だった

加藤弘之(かとう ひろゆき)
1836‐1916(天保7‐大正5)
幕末・明治期の政治学者,教育家。但馬国(兵庫県)出石藩士出身。初め弘蔵。
江戸に出て佐久間象山に兵学,洋学を学び,1860年(万延1)蕃書調所教授手伝となる。
在職中ドイツ語を学び,西洋の政治社会を研究して翌年《隣草》を,68年(明治1)《立憲政体略》を著し,欧米の立憲政治を紹介した。
《真政大意》(1870)を発表後,73年明六社同人となり,翌年民撰議院設立建白に際し,時期尚早論を展開したものの,《国体新論》(1875)を著すなど,このころまで天賦人権論に立脚した平等思想の啓蒙に努めた。 ―コトバンク より―

森琴石の雅友“福原周峰”は佐久間象山に砲術を学んだ。

櫻井勉(桜井勉 さくらい つとむ)
1843-1931 

出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の 内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天 気予報を開始させた。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。
昭和6年10月12日死去。89歳。幼名は熊一。号は児山。    ―出石市HP より―

森琴石は地図の著者として内務省、地理課の人物との交流があった。

仙石政固(せんごく まさかた)
出石藩最後の藩主
仙石政固の略伝は、前々回4月24日付け「明治38年、出石で出版の「紀念帖」に仙石政固、森琴石らが揮毫」の末尾に記述しています。

和歌:仙石政固
仙石政固 和歌

 

 

日露戦争司令官で元薩摩藩士

東郷平八郎(とうごう へいはちろう)
(1848〜1934)父は鹿児島藩士。
戊辰戦争に従軍。
維新後、明治4年(1871)にイギリス海軍に留学。帰国後、海軍中尉となる。日清戦争では浪速艦長として活躍。その後、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任し、日露戦争前の36年に連合艦隊司令長官に就任。日露戦争ではみずから主要作戦を指揮し、バルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた。
大正2年(1913)元帥。3年から7年間東宮御学問所総裁をつとめた。海軍の長老として昭和期になってもその影響力が大きかった。  ―近代日本人の肖像(国立国会図書館) より―

森琴石の知友である 大阪陸軍病院長の“堀内国利”は、脚気予に麦飯供与を最初に試みた人物(調査情報:平成23年5月 http://www.morikinseki.com/chousa/h2305.htm)。その成果があり高木 兼寛や東郷平八郎らが、海軍での脚気撲滅を推進していったのである。因みに堀内家は、舞鶴城主牧野豊前守の家臣であった。

 川村景明(かわむら かげあき)
(1850〜1926)父は鹿児島藩士。
薩英戦争と戊辰戦争に従軍し、維新後、陸軍に入る。日清戦争では近衛歩兵第1旅団長として台湾に出征。日露戦争時には第10師団長、明治38年(1905)大将となり鴨緑江軍司令官として奉天会戦に参加した。40年戦功により子爵。戦後は東京衛戍総督となり、大正4年(1915)元帥となる。   ―近代日本人の肖像(国立国会図書館) より―

上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)
(1849〜1916)
父は鹿児島藩士。戊辰戦争に従軍。明治10年(1877)海軍兵学校卒業、12年海軍少尉。日清戦争には秋津洲艦長として出征。その後、常備艦隊参謀長、人事課長、軍務局長、軍令部次長、常備艦隊司令官等を歴任。日露戦争には第2艦隊司令長官として蔚山(ウルサン)沖でウラジオストク艦隊を撃破した。40年戦功により男爵。43年大将に昇進。
―近代日本人の肖像(国立国会図書館) より―

 

関係不明者

花之本聽秋(はなのもと ちょうしゅう)=上田聴秋
1852-1932 明治-昭和時代前期の俳人。
聴秋は号で、本名は「上田肇」。俳号は不識庵、別名「花本聴秋」。

嘉永5年2月24日生まれ。八木芹舎(きんしゃ)に学び,明治17年京都に梅黄社を設立。
「鴨東新誌」を創刊し,花の本11代を称した。
昭和7年1月17日死去。81歳。美濃(岐阜県)出身。
慶応義塾中退。本名は肇。別号に不識庵。句集に「鶴鳴集」「聴秋百吟」など。
ーコトバンク(一部ウィキペディア) より―

小沼翠山(こぬま すいざん)
伝記不明。

  

憶測ですが・・・
森琴石が他の画家、儒家の揮毫者を推薦したのでは?
●出石の「鶴山保勝会」は、森琴石が養父「森猪平」が出石藩<仙石家の家臣>だった事を知っていたのでは?と、思われます。
「保勝会」は、出石に縁のある森琴石に声掛けし、琴石から直入などの画家に、琴石から藤沢南岳などの儒家へと揮毫依頼が及んでいったのでは?と憶測しています

 

 多数残る森琴石の「鶴の下絵」は「コウノトリ」だったか?
森琴石が練習した「鶴」の下絵が沢山残っています。
平成12年2月頃、東京の飯田知子さん宅(森琴石長女側のひ孫)から、森琴石の下絵類が届きました。
それら下絵の皺伸ばし(アイロンがけ)をし、その後人物、山水、花鳥などの分類別に仕分けた時、大きなものから極小のものまでの「鶴の下絵」が大量にある事に驚きました。
我が家に調査に来られた学芸員の先生が「鶴を描くのは非常に難しいのですよ、琴石は非常に良く観察して描いていますね」と、言われた事がありました。
●鶴とコウノトリとの違いは、足の指の付き方が違うのだそうですが、森琴石の下絵はどうなのか、下絵収納ケースから取り出すのが億劫で、まだ確認して出来ていません。
森琴石の事、納得がいくまで練習に練習を重ねたのでしょう。

 

緻密な森琴石の「コウノトリ」
 絵の行方は?
前回「仙石政固、森琴石らが揮毫『戦捷紀念 鶴瑞』の概要」では、森琴石が描いた「コウノトリ」の画像をご紹介しましたが、緻密に描かれ「鶴山の松上の鶴」や、巣立って(飛び立って)いく鶴の様子が、眼の前で見るかのようである。
時が流れ、コウノトリが絶滅し、外国から頂いたものを育て殖やしている現在、森琴石の緻密な絵は、記録画としても値打ちがあるように思える。
●この絵はまだ現存するのでしょうか?
現存しているならば 今どこにあるのでしょうか?

 

 森家と出石
 
養父「森猪平」
  
森家のルーツ
亡父「寿太」が、生前子供たちに「森家のルーツは、戦国の某武将だった!!」と言っていたそうです。某氏は美濃方面の有名な武将です。
●森琴石の養父「森猪平」は、仙石左京の家来だったと聞いていましたが、家臣は家臣でも末端に属するのではと思っていましたが、どうやらそうでも無かったのかも知れません。
●「森琴石孫「井上保つ氏」からの情報:生家と養子先」で記述しましたが、森家のルーツが美濃方面の某武将だったらしいとの謂れは、まんざら虚言では無かったかもしれない。
●関係不明者の「花之本聽秋」は美濃出身とか、もしかすると森琴石とは知己の間がらだったかも知れません。

          ・・・・ふと、そのような気もして参りました

 

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