明治38年、出石で出版の「紀念帖」に仙石政固、森琴石らが揮毫

2013年4月24日 更新

 

明治38
「出石で出版の紀念帖に仙石政固、森琴石らが揮毫」

平成13年2月25日更新の
森琴石孫 井上 保」氏からの情報:養子先と生家】に関連します

               

森琴石の養父は出石藩主「仙石左京」の家来だった
森琴石の養父「森 猪平」が兵庫県の出石藩、仙石左京の家来だった事は、
2月25日付【森琴石孫 「井上 保」氏からの情報:養子先と生家でお伝えしました。

         
出石で出版の記念帖に、仙石家及び森琴石らが揮毫
古書サイトで発見
●3月末、
「森琴石孫井上 保氏からの情報:森琴石の3人の妻」(2)に取りかかる為
パソコンに向かったものの余り気乗りがしませんでした。

定期的に行なう<森琴石の情報>を得る為の検索を行なったところ、
「日本の古本屋」というサイトから思わぬ情報が飛び込んできたのです。
私共の興味は<出石での出版物>の方へと心が動かされてしまいました。
『出石史』も未だ調べていなかったのですが、古書サイトで<森琴石の著書>を確認したところ、
明治38年、兵庫県出石の<鶴山保勝会>が刊行した『瑞鶴』という冊子に、
東久世、仙石家、藤沢南岳、直入、森琴石らの書・画・写真が掲載
との情報が出てきました。
神戸市の古書店が扱っている書物で、価格は5万円台と非常に高い値段がつけられていました。

◍森琴石の養父が「出石藩の仙石家の家来だった」と、森家では言い伝えられてきました。
森家の過去帳や、森家に幾つか残る<控帖>の中に「出石屋」という屋号が記載されている他は、養父と出石との関係を裏付ける資料は手許に残されていません。
今後も恐らく資料は出て来ないだろうと思っていましたので、これほど早く「森家と出石藩(仙石家)との“関連性”をほのめかす」資料が出てくるとは思いも寄りませんでした。


Google book
『出石町史』に情報
先ずは、Google book 検索で「出石・瑞鶴」のキーワードで検索したところ「出石町史」で、
下記の情報が出て来ました。
『鶴声』に
    「広く朝野の諸名家に贈呈し、
    長く勝事を不朽に伝えんと『戦捷紀念 鶴瑞』を発行して   
  
    乙夜の叙覧に供し、続いて各宮殿下に献納して・・・・・』
 と・・・・。
◍この時点で、正確な書名が『戦捷紀念 鶴瑞』である事が判明。
『戦捷紀念 鶴瑞』 
図書館の蔵書検索
◍早速、国立国会図書館の蔵書検索で『戦捷紀念 鶴瑞』を調べてみました。
所蔵館を調べたところ、
我が家から比較的近い所では
「兵庫県立図書館」と「大阪府立中央図書館」に所蔵されている
事が分かりました。
しかし両館共に我が家からはかなり遠い事、県立図書館の方は館内閲覧のみという事で、
古書で購入出来るならばその方が効率が良いと考えたのです。

山形県の古書店に問い合わせ、取り寄せる
●古書サイトで調べてみたら、『戦捷紀念 鶴瑞』を扱っている古書店は3店あり、
その中、先
の5万円台という値段の店では無く
『森琴石作品集』に近い金額で売られているところがありました。
山形県の南部
東置賜郡(ひがしおきたまぐん)”に所在する古書店でした。

◍出石とは何の関連もなさそうな、遠く離れた山形県の小さな町に、この「紀念帖」があった事も気になり、
東置賜郡の古書店に問い合わせを致しました。
●書名を伝え、「書物の中に森琴石という名の者が掲載されていますか?」と、お訊ねしたところ、
折り返し「載っていますよ」と返事を頂きましたので、躊躇せず購買の手順を踏み送って頂く事にしました。
3日後、待ちに待った書物が届きました。

 

山形には森琴石の知己が存在した
『戦捷紀念 鶴瑞』:元の持ち主は米沢方面の人か?
◍森琴石は山形の人とは少なからず知己がありました。
1:森琴石HPでは
 「吾妻健三郎」の存在=東置賜郡(ひがしおきたまぐん)川西町に隣接する米沢が生地。
2:森琴石の日誌には
山形県東村山郡高擶村の「佐藤荘三郎」という方が出てきます。
  「佐藤荘三郎」=森琴石絵画揮毫依頼者。
山形県の大地主だったらしく、インターネットでの検索結果や、Google book検索でも
大地主を裏付ける記事、その他の資料が多数出てきます。
◍高擶村は山形県の東部に位置し、現在の天童市に当たる。
 故に『戦捷紀念 鶴瑞』は、天童市から出たものではなく、米沢方面から出たものと見るのが妥当では無かろうか?
古書店に引き取られた「紀念帖」の元の持ち主が、必ずしも森琴石の知己であるわけでは無い。
しかしながら
出石から遠く離れたこの地に、何らかの縁で「紀念帖」を持っていた人が存在していたのです。

 

『戦捷紀念 鶴瑞』の企画意図
   *日露戦争の前年、出石の鶴山で「コウノトリ」が巣を作った
   *「コウノトリの巣作り」はめでたい事を予兆する出来事だった。
以上の事から
  1:日露戦争の戦勝をめでたいとし、愛国心を伝える
  2:戦勝を予兆した出来事「鶴山のコウノトリの営巣」と共に、
出石のコウノトリの存在を広く世間に知らせたい

との意図で企画されたようだ。

日露戦争とは
904年(明治37)2月8日)~1905年(明治38)9月5日)
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。
両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結さ
れたポーツマス条約により講和した。(by ウィキペディア)


出石とコウノトリ について
出石では 天保時代より「コウノトリ」を保護
◍延享(えんきょう)元年(1744)出石島村(現出石町嶋)にて、
出石藩3代藩主仙石政辰(せんごくまさとき)がコウノトリの狩りを行う。
◍天保(てんぽう)年間 (1830~1843),
出石藩7代藩主仙石久は、
室埴(むろはに)村(現出石町細見)の桜尾山に営巣するコウノトリを瑞兆と喜び、
鶴山」
と名付けて禁猟区にし、コウノトリを保護。

 

出石の「鶴山」は「コウノトリ」の営巣地
コウノトリ=ツル と呼んでいた
豊岡とその周辺の但馬地域では、古くからコウノトリを「ツル」と呼んで
めでたい鳥「瑞鳥」として愛でる習慣があった。
◍コウノトリの営巣地がある出石(現豊岡市出石町の「鶴山」には、
「ツル」見物のための茶店が出され、市外からも大勢の人が巣ごもりの様子を眺めにやってきたという。

◍明治後半から大正時代にかけて、県や旧室埴村はこの「鶴山の保護に乗り出すようになり、
地元の旧室埴村は保護を訴える看板を立てるなどして見物人へのマナー啓発を行った。

◍兵庫県は鶴山の周囲 18km を銃猟禁止地に指定し、国は鶴山コウノトリの繁殖地として、
史跡名勝天然記念物に指定した
そうした保護の取組によって、大正から昭和初期の但馬地域では、
コウノトリの生息数が急激に増えていった。
(豊岡市:豊岡市環境経済戦略 コウノトリと共に生きるまちづくり 等参照)

 

 『戦捷紀念 鶴瑞』 への揮毫者
出石藩最後の藩主「仙石政固」について
略年表
◍天保14年(1843年)12月15日誕生
第5代藩主・仙石久道の三男で第7代藩主・仙石久利の兄である土岐政賢の長男として
出石で生まれる

◍父政賢は第6代藩主・仙石政美が嗣子無く死去して仙石騒動が起こったとき、
本来なら跡を継ぐ資格を持っていたが、病弱なために弟の久利に家督を継いだ。
しかし久利にも嗣子が無かったため、政固は早くから久利の世子として指名されていた
◍幕末期には久利と協力して藩政を行なう
◍文久2年(1862年)12月    :仙石騒動後に藩政を牛耳っていた堀新九郎を切腹に追い込む
◍慶応元年(1865年)5月15日  :久利の養嗣子となる
◍明治元年(1868年)4月    ;学校権判事に任じられる
◍明治3年(1870年)1月28日    :久利が隠居したため、家督を継いで知藩事となる
◍明治4年(1871年)7月14日    :廃藩置県により知藩事を免官された
◍明治8年4月12日            :明治天皇の侍従となる
◍明治12年9月13日            :侍従を退任する
◍明治17年7月8日            :子爵となる。後に従二位まで昇る
◍明治23年7月10日            :貴族院議員に選ばれる
◍大正6年(1917年)10月23日    :死去。享年75。
(by フレッシュペディア)

備考
天保14年2月19日に生まれ、大正10年2月24日に歿した森琴石とは同世代に当たる。
森家の控え帖には「土岐」姓の氏名が何人か記録されている。

                         つづく

続きは
『戦捷紀念 鶴瑞』の概要
書画揮毫者の顔ぶれ
森琴石の「コウノトリの巣篭もり?」の画像紹介
珍しい当時の「コウノトリ営巣」写真          
等をご紹介致します

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