2013年2月25日 更新
2013年2月9日 「森琴石孫「井上 保」氏への聞き取り」に続きます
叔父井上保氏から頂戴した書簡(一部は口頭)からの情報を、内容別に少しずつご紹介したいと思います。
叔父「井上 保」氏からの情報
森琴石養子先の“森家”や生家“梶木家”についての情報は非常に少ない。
森琴石ホームページでは既に井上氏からの情報を記述しているが、その後私共が調査した事を交えてご紹介したいと思います。
養子先「森家」について
1
養父となった森善蔵は、出石の仙石家に仕えた武士で、藩に騒動がおこり、藩が取り潰された時浪人として大坂に出てきた。(注:井上氏の誤り・・・取り潰しにはならなかった)
2
(間違っているかもしれないが)知行地が出石辺りにあり、出石の近辺に森村というのがあり、一村森姓であると聞いた事がある。
生家「梶木家」の事
1
森琴石の実母の名前は知らない。
2
実父の梶木源次郎は、有馬の産業振興や土木事業に心血を注いだ為、資産を無くしてしまった。
それほどまでに有馬の為に尽力した梶木源次郎を気の毒に思い、当時「中の坊」の株が空いていたので、村人達が協議して「中の坊」の株を贈った。
3
父梶木源次郎は、旅館「中の坊」を継承する際、商売の心得のある「奥の坊」の娘を後妻に迎えた。(注:当時の奥の坊経営者は、現在の経営者とは姓、家系が違います)
4
梶木家とはずっと付き合いが続いていたようで、「多祢(たね)」という当時の女将が上京する際、大阪駅に近い雄二の家(曽根崎に住んでいた)に、時々泊まっていた。
(注:当時の女将は森琴石の実兄 梶木源之助の娘だった可能席がある。森琴石の長兄源之助は長寿で大正8年95歳で歿した。源之助は東京向島で有馬温泉を経営していたので、多祢の上京はそれと関係しているかも知れない。)
平成4年5月、出石を訪問していた
夫隆太は、森琴石の養子先の森家が「出石の出身」という事は、父寿太より良く聞かされていたという。
「森琴石の養父は出石藩の”仙石騒動”で負け組となった側の家来だったが、騒動後大坂に出た」と。
従って私共は少なからず出石には興味を抱いていた。
夫隆太が「学生時代野球部でも一緒だった友人が出石神社の宮司の息子で、夏休みに泊らせて頂いた事がある。懐かしい、行ってみよう!」と言った。
三田市から出石への交通ルートは比較的便利という事もあり、三田市に越して1年半過ぎた平成4年5月の連休(父寿太歿後半年)、ドライブがてら出石の町を訪れた事がある。
家老屋敷に行くと、中2階と思しき場所に「家臣らと密談をした小部屋」があった。この部屋は不意の襲撃に備え押入れから逃げる事が出来る仕組みになっているのだそうだ。
森琴石の養父“森 猪平”は“伊作”という幼名もある事から、武士であったに違いない。
どの程度の階級の武士だったか?
「家老と談義が出来るほどの身分ではなかっただろうな!」と思いながら部屋をのぞいた記憶があります。
メモ
仙石騒動とは
藩の税収を年貢米からと、酒造などからも税収をという二派の抗争が「主家謀反(しゅけむほん)」の罪にすり替えられ、出石藩老中「仙石左京が断罪された」事件。
森琴石が生まれる8年前、天保6年の出来事である。
日本三大お家騒動のひとつ。
藩士及び石高が半分に削減された。
(藩の財政を年貢の徴収だけに頼る事に反論,酒造など他の産業をも財源にすべきと提唱した事が
逆鱗にふれ 「主家横領の謀反者」の罪を被せられた)
昔は謀反者として肩身の狭い立場であったが現在は事件の解明が進み全貌が明らかになり逆転、改革側として賞賛されるようになった。
仙石騒動については「ウィキペディア:仙石騒動」にて詳細に解説されていますのでご覧下さい。
森家の調査
出石市教育委員会に問い合わせ
平成12年5月、森琴石の養父の森猪平(大坂では2代目森善蔵と名乗る)は、どの程度の階級の武士だったのか、森姓の武士の記録が残っているかどうかを知りたいと、出石市(現在は豊岡市出石町)の教育委員会に問い合わせ致しました。
出石市より回答
藩日誌の一部が破棄、調査は不可能
名誉の回復
教育委員会からの回答は
「文献を色々しらべたが、肝心の当時の藩日誌が何者かにより意図的に破棄されており、氏名の存在や身分などの調査は不可能です」とのお返事を頂きました。
そして
「現在は調べが進み、左京側は謀反者ではなく改革側として評価されている」ともつけ添えて下さいました。森家では“仙石家の謀反側の者で肩身が狭い”として、おおっぴらには出来ず身内だけに語り継げられてきたのです。父寿太は名誉回復の事実は知らないまま亡くなったようです。
森村について
「森村」については、インターネットでは色々検索しましたが、決め手となる情報は出ていません。
姫路市立美術館の高瀬先生から「豊岡に近いところに“森村”という地名があったみたいだ」とご連絡頂いていました(姫路市立美術館で記述)。
我が家では、出石市史や地名辞典などで“森村”について調べていなかった事に今気づいています。
叔父の記憶は”又聞き”なので、必ずしも正確でない事もあるでしょう。
補足
森琴石の生家「梶木家」と養子先「森家」について
「平成16年2月」で記述していますが、父寿太が生前に残した覚え書きには
「梶木家と森家は姻戚関係にあり、仙石騒動後、両家は共に出石を出た」とあります。
●森琴石の実父梶木源次郎は事業及び慈善事業に辣腕を振るった人物でなので、梶木源次郎の家系は商才のある家柄であった可能性がある。
●父寿太の覚え書きが事実であるならば、梶木家の者が出石の財政改革側に加担する商人だった可能性がある。
身内の森猪平と、出石を出たのは辻褄が合うかも知れません。
●森琴石の養父となった“森 猪平”は、初代森善蔵の養子となっており、その初代善蔵も森定七の養子である(共に実子は早世した為)。
*森 定七は明和3年(1766)に生まれ天保6年(1835)に亡くなった。
*森家の葬儀録には「出石屋定七」となっている事から、出石に住んでいた森家の者が古くから大坂
の安治川で(廻船)宿を営んでいたと思われる。当時の“諸事控”を見ると森家はかなり豊かであった
よう だ。
*森家の控え帖には、定七の時代からずっと“有馬 奥の坊”の名が記述されているので“奥の坊”と
は身内であった可能性がある。
*奥の坊は「浅野」姓である。
梶木源次郎は“奥の坊”を頼りとして出石から有馬に赴いたのかも知れない。
●森琴石の養父森猪平は、大坂では表向きの屋号を「2代目 出石屋善蔵」としたが、身内内では「出石屋捨造/捨=(てへん +棄)蔵」と名乗った。
●有馬温泉の歴史については、田中芳男著『有馬温泉誌』や『有馬郡誌』、その他で調べましたが、梶木家の由来について触れた箇所はありませんでした。
森琴石HPでの記述ヶ所
森家のルーツについて
「森琴石紹介:生家と森家」
江戸末期の森家について
「平成18年5月【4】注3 森琴石と慶応義塾などについて」・「平成19年7月【1】注4 & 【2】」・「 成19年12月【2】柳 楢悦氏に着目する理由◆2つ目」 などで記述しています。