美術史学者「望月信成」氏、美術評論家「増田 洋」氏が森琴石を評価

 

 

2014年9月2日 更新

 

前回
科学史研究家吉田光邦氏の2著書に森琴石の「造幣局之図」が掲載 の続き

 

 美術史学者「望月信成」氏、美術評論家「増田洋」氏が森琴石を評価
前回(8月21日)、【科学史研究家吉田光邦氏の2著書に森琴石の「造幣局之図」が掲載】の末尾に、昭和期に大阪で活躍した「望月信成氏、増田洋氏が森琴石を評価したとお伝えしまたが、その根拠となる2つの資料をご紹介します。

■『難波大阪 芸術と芸能』の中、森琴石について書かれた文章は、1998年秋、森琴石の調査を開始して間もない頃、きりえ作家加藤義明先生が、コピーを我が家に送って下さったのが最初です。
■加藤先生は昭和51年大阪市立美術館美術研究所に入所、美術を学ばれた方です。この時の館長が望月信成氏だったのです。
■その後、大阪市立城東図書館の久賀田明美氏からも<森琴石が掲載されている書物>の資料をまとめてコピーして送って下さいました。その中にもこの『難波大阪』の資料が入っていました。
■文章が少ない事、前後の文章の繋がりがあった方が望ましいと、森琴石HP「森琴石紹介:文献抜粋」には取り上げていませんでした。
■『難波大阪 全3巻』は、大阪の歴史を系統的に知るには不可欠な資料と思い、我が家ではかなり前に古書店から取り寄せていました。
■『難波大阪 全3巻』は昭和50年11月15日、講談社から発行されたもので、「歴史と文化(宮本又次編)」「郷土と史跡(牧村史陽編)」「美術と芸能(望月信成編)」の3巻で成り立ち、3巻全てが入る帙は非常に大きく豪華なものです。
■それぞれの巻が約400頁もの内容で、モノクロ・カラー写真が豊富に挿入されており3巻が色違いで装丁された立派なものです。
望月信成氏の経歴を下に記述しますが、美術史学者としては超一流の方です。
■その望月先生が、大阪画壇のうち「南画壇」として取り上げたのは「森琴石」のみであり、森琴石の事を「作画と作詩に懸命であった」と、自身の言葉で森琴石を締めくくっておられます。これは望月先生が、恐らくご自身が南画の調査をする過程で森琴石の作品を多数ご覧になられ、作品中の<漢詩>をも多数ご覧になった上での文章だったと思われ、このたび、この『難波大阪 芸術と芸能』での望月信成氏の<森琴石が掲載されている部分>を転載させて頂く事と致しました。
「美術と芸術」編の目次は画像でご覧ください。

 

望月信成氏
美術史学会の重鎮
・・仏教美術・南画研究者、美術鑑定家として著名

望月信成(もちづきしんじょう)
●1899年―1990年5月28日
●美術史学者。明治32年京都で生まれる。
父は仏教史学者望月信亨。
●大正15年3月東大卒後、同年4月京大大学院に進む。
●同年9月より京都博物館鑑査員となる。
●昭和6年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を務め、昭和11年大阪市立美術館主事に転じた。
●昭和24年9月大阪市立美術館館長。昭和25年大阪市立大学教授に任ぜられる。など、様々な役職をこなし大阪の文化発展に尽くした。
(望月氏の役職名や業績は東京文化財研究所HP、物故者記事を参照ください。)              ●昭和39年に市立美術館館長・市立大学教授を退職後は、昭和43年から同54年まで帝塚山学院大学教授となる。
●昭和43年より同60年まで財団法人美術院理事長となり、美術教育及び文化財保護事業に継続して尽くした。
●仏教美術・南画研究者、美術鑑定家としても活躍、重要文化財の発見などに業績をあげた。
●大阪市文化賞・毎日出版文化賞受賞。著に『日本上代彫刻』『一筋の細い道』等。
●平成2年(1990)歿、90才。
(by コトバンク・東京文化財研究所HP、物故者記事)

 

難波大阪  美術と芸能
大阪画壇―南画壇では森琴石のみを取り上げる
・・森琴石は「作画と作詩に懸命だった」と記述 
・・・森琴石の作品を多数検証か?

 難波大阪  美術と芸能
望月信成編
発行年:1975(昭和50年)
発行:講談社
掲載頁:169

 南画壇で重きをなした人は森琴石である。
天保14年(1843)に兵庫有馬で生れ、4歳の時に大阪の高麗橋の森家に養われた。
嘉永3年(1850)に鼎金城(1811~63)に南画法を学び、また十時梅厓(ととき ばいがい)の子忍頂寺静村にもついて画法を受けた(註1)。
明治6年東京に行き、高橋由一(1828~94)に西洋画法を聞き、画境が大いに進展した。
同16年に日本南画会を組織し、同19年に大阪道修町に浪華画学校の設立に力をつくし(註2、大正2年に大阪の画家として初めて文展審査員となった。
彼は詩文にも長じ、作画と作詩に懸命であった。
大正十年享年七十九歳で歿した。

注1忍頂寺静村の父は十時梅厓では無い。
注2:浪華画学校設立は、実際は明治17年。

 

『難波大阪 全三巻』全体像

難波大阪 全

お断り
(google 画像検索 の画像を使用させて頂いています。
画像提供元はアドレス不明の表示が出ています)

 

『難波大阪 芸術と芸能』

目次
難波大阪 目次2 (583x800)難波大阪 目次1  (558x800)

  

増田 洋氏
美術評論家
大阪市立美術館時代:望月信成氏が館長
・・兵庫県立美術館副館長
・・・癌にて早逝
増田洋氏経歴
美術評論家
●昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれる。
●同31年に神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業。
●同31年、石橋美術館の学芸員となる。
●同35年からは大阪市立美術館学芸員に転任。
●同44年兵庫県立近代美術館学芸課長に赴任。
●同61年、同美術館次長(副館長)となる。
●平成6年参与となる。
●編著書に「小出楢重」(日本の名画17巻 中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著 現代日本美術全集2巻 集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、
「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、
「向井潤吉・小磯良平」(共著 20世紀日本の美術17巻 集英社)などがある。
●美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(増補新装版 芸艸堂)としてまとめられた。
●1997年5月11日午後9時33分、食道ガンのため死去した。享年64。
(東京文化財研究所HP、物故者記事 より転載させて頂きました )

 

切り絵作家「前田 尋」氏より情報を頂く
「大阪洋画壇回顧と風景画選」展の図録
・・増田洋氏の論文・・・特に取り上げたい画家は「森琴石」と記述
2012年9月13日、きりえ作家前田尋先生より、
「手元にある大阪の風景画選のカタログを見て、偶然森琴石の名前を見つけたのでコピーを送ります。(文章を書いた)
増田氏は大阪府立現代美術センターの館長や兵庫県立美術館の館長もされた方だそうです。」
というお手紙と、増田洋氏の論文のコピーを送って下さいました。
前田尋先生は、以前【儒学の師「妻鹿友樵」】の冒頭【『大阪春秋』との出会い】で記述した加藤義明先生に切り絵を学び(1970年)、以後、海外等にも画題を求め、その成果を個展等で発表、現在、日本きりえ協会、大阪府美術家協会、貝塚美術協会に所属され、切り絵の振興と指導に精力的に活躍されています。

■増田洋氏については詳しくは知りませんでしたが、(夫の)父寿太の残した資料に昭和43年10月、大阪市立美術館で開催された「明治 大正 昭和 大阪の巨匠展」の図録があり、図録の冒頭の文章を増田洋氏が書かれ、文中「明治17年、樋口三郎兵衛が自宅を教室にして私立浪華画学校を設立した」と、教師の一人に森琴石の名を掲げている。
■出品目録⑦に森琴石の「十六羅漢像」が出ており、出品作家略伝にも森琴石が掲載されています。
■森琴石調査の最初の頃、この図録にある「十六羅漢像」の所蔵者が知りたくて美術館に問い合わせをしましたが、当時のご担当の先生から「所蔵者の名は言えません」と返事を頂いたのでした。
■その頃、神戸市立博物館の成澤先生からは「文字の読み」や「図書館の蔵書」「作品の所蔵者」その他、森琴石の調査では至れり尽せりと並々ならぬご尽力を頂いていましたので、館での対応の違いにかなりとまどいました。成澤先生は「森琴石の直系のご子孫に(所蔵者)を教えても問題は無いはずだが・・・」と。

■図録での増田洋先生のお名前は覚えていましたので、以前、増田氏の著書「学芸員のひとりごと」を古書サイトから取り寄せた事もありました。
■前田先生のお手紙を拝見し、京阪ギャラリーでの図録を是非入手したいと思い、又HPに掲載させて頂く為には著作権の問題がありますので、3日後の9月16日「京阪デパート 守口店」に問い合わせしました。
■一両日後くらいにお返事を頂きましたが、
「ギャラリーは既に廃止となっており、当時の担当者も分からず、尚又過去の展覧会の図録は処分したようです」との回答でした。

■増田先生は既にご他界されており、ギャラリーも廃止となった事もあり、図録からの論文の「転載」を、どなたに許可を得れば良いか分からず、この2年間森琴石HPにはご紹介しなかったのですが、この度望月信成氏の著書を取り上げた事もあり、故増田先生やご遺族の方もきっと許して下さるだろうと、下に<森琴石の記述部分>をご紹介させて頂く事と致します。

「大阪画壇回顧と風景画選」展
990年10月 京阪デパート 守口店7F
京阪ギャラリー・オブ・アーツアンド・サイエンス

『大阪画壇回顧と風景画選』図録より
大阪洋画壇回顧と風景画選
増田 洋

私、詳しくは知りませんが、まことに面白いと思うことがあります。おおさかを、昔、小坂(おさか)と呼んだそうです。室町時代のことでした。江戸時代には一貫しておおさかを、大坂と書き表わしています。大坂を止め大阪と表記するようになったのは、明治初年以降のことです。したがって大坂から大阪への変化を、おおさかという日本有数の地域社会が、近世を終わり近代を迎えた象徴と考えことができます。

明治維新のように大きく時代が変化する時には、古い文化や伝統あるいは旧来の慣習などは、朽ちかけた老木が倒れるように失われ、あるいは切り倒されることがあります。

また、その一方では、文化の新しいひこばえをみることもあります。私の考えでは、大阪の近代絵画の誕生は、文化のひこばえに他なりません。ひこばえとは、切り株や朽ちかけた老木から芽生える新芽のことです。実生の新芽ではありません。さて、明治17年(1884)という年は、大阪の近代絵画のことを話す場合、重要な年となっています。明治17年の秋、当時の大阪市第一大区(現中央区)道修町5丁目、樋口三郎兵衛家に、私立浪華画学校が開校しました。大阪に生まれた最初の美術学校です。校主樋口三郎兵衛は、文久3年(1863)10月27日に、大阪の安堂寺町の熊野屋小寺家に生まれました。幼名は松次郎です。彼は明治11年に樋口家の養子になり、翌年に三郎兵衛を襲名しました。養家を嗣いだ樋口三郎兵衛は、魁新聞を発行したり、樋口銀行を創設するなどの事業を行っていたのですが、日本画の保存、保護に心を痛め、画学校の創立を決心しました。いま考えるに、画学校の運営は、樋口三郎兵衛にとっては無償の行為であったらしく、明治21年、ときの政府が東京美術学校を創立すると、民間の役目は終わったとして、浪華画学校の幕を降ろしてしまいました。明治25年のことです。

樋口三郎兵衛の日本画保存の志に共鳴して4人の画家が浪華画学校の教壇に立ちました。狩野永祥、上田耕沖、森関山、森琴石の4人でした。その中で狩野永祥は開校後1年半余で世を去ったので、新しく庭山耕園が加わっています。私が、とくにとりあげたいのは、南画家である森琴石です。

森琴石は、天保14年(1843)に、有馬湯山町梶木源二郎家に、二男(注:正しくは3男)として誕生しました。弘化3年(1846)には、大阪の森猪平家の養子になっています。森琴石は、初めに鼎金城、後で忍頂寺静村に師事して、南画を学びました。明治6年には東京に出て高橋由一から油絵を教えられています。その後大阪に戻り、明治・大正の大阪画壇の指導者として活躍しています。第7回文展に際しては、大阪から初めて選ばれて審査員になっています。南画家が油絵に関心をもち、本格的に学んだということも、たいへん珍しいことですが、森琴石には、いまひとつの顔がありました。それは洋風銅版画家としての森琴石なのです。西村貞著『日本銅版画志』を読んでわかったことですが、森琴石は、堂号(工房名)を響泉堂と称して、明治の大阪を代表する洋風銅版画家として、かなり活躍していたのです。

・・・・後略


増田洋氏
小出楢重・小磯良平・向井潤吉の作品集を手掛ける
父野村廣太郎との縁
以前、神戸市立博物館(一)で記述しましたが、 父野村廣太郎は、信濃橋洋画研究所で小出楢重らに画を学んでいました。向井潤吉画伯はその時の同期生です。父は小磯良平の画集の製版を多く手掛けた関係もあり、小磯良平とも親しくしていたと聞いています。
■昭和62年、兵庫県立美術館で「小出楢重巡回展」が開催された時、父が学んだ小出楢重の展覧会という事で見に行ったのですが、その時増田先生は副館長をされていたようですね。
増田洋氏は石橋美術館から大阪市立美術館に転任されましたが、当時の館長が望月信成氏だったのです

余談ですが
●「大阪洋画壇回顧と風景画選」展が開催された、京阪ギャラリーですが、平成9年4月25日~5月7日、私の父(野村廣太郎)の絵画と現代の写真とで時代を比較した「野村廣太郎の絵画と写真で見る おおさか百景 いまむかし」展が開催されました。
●前日の朝日新聞夕刊に、二頁見開きで父の絵が派手に紹介されました。記事の影響もあり、3日目の日曜日に家族で観覧しに行ったところ、まるでバーゲン会場かと思われるほどの混雑振りでした。ギャラリーはかなりの広さがあったように記憶しています。
●混雑の中、図録が飛ぶように売れていていました。3日目にしてソフトカバーの図録は売り切れ、500円割高となる<ハードカバー>のものが売られていました。出版社(東方出版)は会期中3版増刷を繰り返したそうです。図録の解題者は「伊勢戸佐一郎」、解説は「河内厚郎」・「中川憲一(大阪市立美術館)」氏です。中川先生は、この二年後「故野村廣太郎 巡回展」でも大変お世話になりました。

■『難波大阪』の編集者の一人宮本又次先生は、父が描いた『明治大正 大阪百景』(保育者・昭和53年)の解説をして下さった方です。ご子息の宮本又郎氏は夫隆太と大学が同じで知己の間柄でもあります。又郎氏からは「森琴石のHPなど、父又次の著書からの転載は無条件で使って下さって結構です」と、ご許可を頂いています。
■毎度乍らこじつけのようですが、今回の2つの資料のご提供者がきり絵作家という事等、いろいろな縁が重なっているように思います。

 

 

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