森琴石調査では多くの方々から大変ご協力を頂きました。『森琴石作品集では』出版社の意向で、例外を除き、ご協力者氏名は、森琴石の作品を提供して下さった方々のみとさせて頂いています。
しかし乍ら、お名前を出せなかった方々の中には、私共に対し並々ならぬご尽力、ご協力を頂戴した方々が多数いらっしゃいます。
富みに物忘れが激しくなってきている昨今、ご厚情を頂いた方々の記憶を風化させない為に、多少記憶がおぼつかない事や順序が違うかも知れませんが、私共の謝意を少しでも示したく、つたない文章ですが記録として残したいと考えました。
2012年3月11日 筆者
尚、現行のWhat’s Newの「森琴石の足跡を辿る」とテーマが重なりますので、後月カテゴリーの組み直しをする予定です
2012/3/11更新
第1回
神戸市立博物館 (一)
森琴石の“銅版画”について・・・事前知識
●曽祖父森琴石が<銅版画家>でもあった事を知ったのは、
昭和49年9月、私共夫婦の父(森寿太、野村廣太郎)たちが、西村貞著の「日本銅版画志」及び「森琴石翁遺墨帳 乾坤」から、作品や文章を抜粋して複製・編集した「森琴石翁画集」という私家本を刊行した事からでした。
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・・・・・・森琴石HP「森琴石紹介:文献抜粋」 7 で一部紹介
■父達は入学年度こそ違うが、大正時代の末に開校した信濃橋洋画学校に入学し、小出楢重や国枝金蔵、鍋井克行などから油絵を学んでいました。
■私(森満代)の父と同じクラスには向井潤吉や田村孝之助がいたそうです。
父は
“自分の方が向井画伯より早くに大阪市展に入選した”
田村孝之助はデッサンが非常に上手だったので、
”孝之助の後の席に座って、孝之助がどのように描くか盗み見していた”
と、夕食時のほろ酔い気分の折に思い出話をしてくれていました。
私と夫の父達は、そのような縁もあり、私達の縁談が纏まるや否や急速に親密度を増していきました。
■私家本の画集は、父が製版会社を営んでいたので、印刷用の<余り物>の紙を使用、モノクロで製版印刷した極めて簡素なものです。
■画集と呼ぶには余りにもお粗末なものですが、当時はまだコピー機が無かった時代、このような手段で森琴石の銅版画家としての部分をアピールしたいと思い立ったのでしょう。
■画集は、舅寿太の趣味の仲間や親せき筋に配ったらしく、画集の送り先の名簿や受け取った方々からの礼状が残っています。
■当時、私共夫婦は二人目の子供が誕生して4か月くらい経った時期で、子育てや会社勤務に追われており、父達が画集を作っていた事など全く知らなかったのです。
●当HP「森琴石紹介–文献抜粋:銅版画編」で紹介していますが、西村貞著『日本銅版画志』は1,941年(昭和16年)に全国書房から刊行されたもので、私はこの書物の存在により、森琴石が銅版画家でもあった事は一応知っていたのです。夫隆太は全く興味が無かったようでした。
舅の寿太は「南蛮美術館(今の神戸市立博物館)」に画集を送付したと思われ、成澤勝嗣先生は、その小画集の奥付の住所を見て森家に連絡されて来られたのだそうです。
●昭和62年頃、私達は宝塚市の逆瀬台という所に住んでいました。
当時は神戸市の王子公園にあった兵庫県立近代美術館で「小出楢重巡回展」が開催されました。
私は小出楢重と聞き「これは是非行かねば!」と、家族で展覧会に行きました。
資料コーナーのガラスケースに“生徒名簿”があるのを発見。
何と、数あるコースの中、偶然にも父の所属していたコースのところが展示されていたのです。
私は父の名前をすぐさま見つけ出し「父の言っていた事は本当だったのだ」と。
後に大画家として大成した向井潤吉や田村孝之助が所属していたクラスだったからその部分の名簿が展示されたのでしょう。
■その後、私は夫の曽祖父が有名な南画家だったという事を思い出しました。
父廣太郎からは「琴石さんは立派な人だった」としか聞いた事が無く、森琴石の作品は、夫の実家にある数点しか見たことがありませんでした。
■森琴石の作品が展覧会に出品されたという話も聞かないので、「それは何故なのだろう?」と疑問に思い、例の「森琴石翁画集」お読み始めました。
少し凸凹した上質の紙が却ってあだとなり
「印刷された銅版画や南画は、森琴石の緻密さを生かし切れていない」と、感じました。
■銅版画の「布引の滝図」が破格の構図、「康熙御製 耕織図」が白眉の作品と西村貞が解説している文章が印象的でした。
しかし当時は康熙という意味も分からず、馴染みの無い美術用語を使った文章はなかなか頭にすっと入ってこないのでした。
■「森琴石翁画集」の最後尾に舅森寿太が後書きを綴っています。
「森琴石翁遺墨帳 乾坤」の南画類は、その殆どが戦災などで焼失したと思われる。しかし銅版画作品は、神戸の南蛮美術館に多数保存されている」
と記述しています。
■その後、美術ガイドブックか何かで調べると、当時はもう南蛮美術館は無く、神戸市立博物館に名前が変わっていたのです。
■後日、神戸市立博物館に「そちらで保管されている作品はいつでも見られるのですか?」とお尋ねしたところ、
「当館の所蔵品は、企画された内容に該当する作品が展示される時のみ公開されますので、常時展示されている分けではありません」
と、丁寧に回答して下さいました。
「ああそうか、いつでも見られる分けではないのだ!」と、がっかりしたのでした。
私が夫の曽祖父<森琴石>に関心を寄せたのは、この問い合わせがきっかけとなったように思います。
『森琴石作品集』刊行のきっかけとなった……「有馬の名宝」展
●神戸の奥座敷として知れる有馬温泉は、古来より多くの人々が訪問し豊かな文化が育まれてきました。
1995年(平成7年)1月17日の未明に発生した阪神淡路大震災は、有馬温泉にも大きな影響を与えました。致命的な事は、有馬温泉への<客足が大幅に激減>したのです。
神戸市ではその事を憂慮し、有馬温泉を元気付けようと展覧会を計画し、平成10年9月26日~11月7日にかけて、神戸市立博物館で「蘇生と遊興の文化 有馬の名宝」展が開催されました。
●当ブログ【文化財遺墨の宝庫「月ヶ瀬 騎鶴楼」 】で記述していますが、成澤勝嗣先生はこの展覧会の開催4ヶ月ほど前に、森家を訪問して下さいました。これが森家と成澤先生との関わりの始まりです。
「有馬の名宝」展開催・・・・特別室<森琴石のコーナー>
●平成10年9月26日(土曜日)、展覧会の初日、家族一同期待に胸膨らませて会場に赴きました。我が家では、前日に長女の結納式があり、2日続きで嬉しい行事が重なりました。
●オープニングセレモニーが終わり、会場での観覧を進めていきますと、奥の特別展示室には有馬が生んだ芸術家として<森琴石のコーナー>が設けられていました。
神戸市立博物館所蔵の森琴石の銅版諸国名所図(8枚)、大阪名所図(8枚)、地図類(6舗)、
森琴石刻による井上勤の最初の翻訳本「月世界旅行(2種)」、西村貞が白眉の作
品と賞した「康煕御製 耕織図」、銅版月ヶ瀬勝景図、画帖(1)、森琴石生家<中
の坊>等の掛軸(5)、個人蔵の森琴石編著の「墨香画譜 4冊」、「南画独学揮毫
自在 4冊」、森家所蔵の森琴石肖像ガラス湿版写真、森琴石の家族写真等が、
ガラスケースや壁面などに、それら諸作品が、ずらりと展示された。
とりわけ鮮やかな色彩の地図類が圧巻、その精緻さに目を奪われました。
●森琴石の作品の展示は、この展覧会以前にも各地で幾度かあったようだが、殆どが1作品のみの展示で、これほどまとまった展示は初めてだったようです。
大阪近代美術館建設準備室では、熊田司先生という銅版画や銅版書誌のエキスパートがいらっしゃる関係から、同準備室企画の展覧会では<響泉堂刻の書誌類>が纏まって展示された事はあるが、「有馬の名宝」ほど、作品数とジャンルを超えた展覧会は未だ有りません。
●「有馬の名宝」展終了後、皆様方の多大なご協力により、精力的に作品類の所在を確認した甲斐があり、かなりの南画(文人画)作品、膨大な数の銅版書誌類(地図を含む)、珍しいラベルなどの商業用銅版印刷類が発見されました。
しかい長年の不況続きで、行政からは芸術部門への財政手当ては削減され続け、森琴石のまとまった作品類のお披露目は残念ながら期待出来ないようです。
いわんや、森琴石の師匠たちやその同門、森琴石門下の作品類を一同に会して見るのは夢の又夢となりました。
●「有馬の名宝」展の広告ポスターですが、疑問に思うのは、森琴石の名前はどこにも書かれていない。同じく有馬出身の芸術家「山下摩起」の名前はあるが・・・・・。
森琴石は、展覧会での隠し玉的なものだったのか?
●私ども夫婦はこの特別室の曽祖父の作品類を食い入るように見、初めて見る曽祖父森琴石の銅版画類、特に地図類に目を見張ったのです。
私は 「ほおお、こんなに細かいものよくやったものだ!! すごい根気と労力を費やしたのだろうなあ!!」 と。
しかし森琴石はこれでお金儲けたをしたとは到底思えないし、どのような気持ちでこれらに臨み、どのような生涯を辿ってきたのだろうか? 森琴石とは、いったいどんな人だったのだろうか?」と、作品を眺めながらさまざまな思いが頭によぎってきました。
夫も同感だったらしく、夫婦が同時に口をついた言葉は「森琴石のことを調べて、もっと作品を探して、まとめて本にしたいなあ!!」・・・・でした。
成澤勝嗣先生との出会い
●会場を一巡して、皆と歓談していたところ、会場の様子を見に来られた成澤勝嗣先生が、母、米子の姿を見られ、こちらの方にやって来られました。私達は、母から紹介され初めて先生と対面したのです。
ご挨拶のあと「これをきっかけに曽祖父をもっと調べてみたい!!」と、私共の気持ちを伝えたのでした。
●その後、成澤勝嗣先生との関わりはどんどんと深まり、成澤先生は森琴石調査での大恩人となった方です。