大阪中之島美術館「大阪の日本画」…森琴石の作品「月瀬真景図」など 4点展示(入れ替えあり)

2023年2日11日 更新

 

体調不良でインターネットを禁止されています。
今回はごく簡単に紹介させて頂きます。

 

 

大阪の日本画 | 大阪中之島美術館 (nakka-art.jp)

 

大阪中之島美術館

開館1周年記念特別展 大阪の日本画

森琴石作品 4点展示

 

展覧会の概要

●開催期間:2023年1月21日(土)〜2023年4月2日(日)
★前期=1月21日~2月26日)
★後期=2月28日(火)~4月2日(日)

👂耳ヨり情報
音声ガイドナビゲーター=片岡愛之助氏
          監修=林野蛾人氏
……貸出料金600円∨アプリ配信650円

ユニークyou tyube
掛け軸塾(野村塾長)

図録…2800円

 

東京都 東京ステーションギャラリーでも開催されます
巡回情報.
会期:2023年4月15日 (土)〜2023年6月11日 (日)

 

展覧会の詳細は

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森琴石の作品は
4
文人画ー街に息づく中国趣味 
にて
4点展示されます
(但し、作品は前後期で入れ替わります)

森琴石の展示作品リスト
73 獨樂園図(明治17年/前期/西宮K氏コレクション蔵)
74 月瀬真景図(明治15年/前期&後期/森家蔵)
75 山水図(明治30年/後期(2月21日~3月5日)/泉屋博古館東京)
76 群花双鶏図(明治30年/後期(3月7日~4月2日)/西宮K氏コレクション蔵)

 

『大阪の日本画』図録 より
転載させて頂きました
お断り(行間、文字の大きさを変更しています)

文章=林野雅人氏

⓵第4章の解説
➁森琴石 紹介文
⓷作品解説

 

⓵第四章の解説

文人画 ― 街に息づく中国趣味

日本における文人画(南画)は、一般的には中国の南宗画に端を発した文人の余技的な絵画に影響を受け江戸時代中期以降に定着した、水墨山水画に漢詩などの賛を加えた表現のことを指す。江戸時代、都への玄関口にあたる大坂には様々な文物が集まり、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行した。
さらに大阪では、漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かったことに加え、洗練された表現が人々の気質かなうものであったことから、明治時代以降も文人画人気は続き、田能村直入(1814~1907)や村田香谷(1831~1912)、姫島竹外(1840~1928)など、西日本を中心に各地から文人画家が集まり優れた作品が多く生まれた。

また近代の大阪では、文人画家は水墨画のみならず、中国趣味の色鮮やかな花鳥画なども手がけており、従来の文人画の枠にとらわれない絵画を描いた点においても注目される。

大阪を代表する文人画家であり銅版画家としても活躍した森琴石(1843~1921)のもとにはくの文人たちが集い、サロン的役割を果たすなど江戸時代より続く大阪の文人画家たちの交遊スタイルは明治以降も続いた。

さらに、当時の大阪では橋本青江(1821~1898)、河邊青蘭(1868~1931)など、知識と画技を身につけた女性画家の活躍もみられ、彼女らは画塾を構えて後進の指導にもあたった。こうした大阪の文人画は、後に新南画が大阪を代表する絵画表現として栄える礎となった。

 

作家解説

森琴石
有馬(現在の神戸市北区)に生まれる。本名は梶木熊。字は吉夢。号は鉄橋、金石、琴石、雲根館など。画室名は聴香読画蘆。三歳で大坂の森家の養子となる。鼎金城と忍頂寺静村に南画を、妻鹿友樵に漢籍を学ぶ。明治初期、東京に出て高橋由一に就いて洋画の教えを受ける。明治17年(1884)に設立された浪華画学校の支那画教員となる。明治22年に浪華学画会を結成する。大正2年(1913)文展審査員となる。また南画のみならず、響泉堂の名で銅版画家としても活躍し、地図や刊行物を多く残した。

 

⓷作品解説

73「獨樂園図」明治17年(1884)西宮K氏コレクション

独楽園は熙寧4年(1071)に洛陽に閑居した宋の司馬光(1019~86)か熙寧6年に土地を購入し造成した園のこと。朝廷から退いて園内を廻り遊ぶのは真実の楽であるとして名付けられた。園庭には蔵書5千巻を擁する読書堂をはじめ、釣魚庵や見山堂など7つの建造物が設置された。独楽園は日本の文人画家たちにとって理想とする境地のひとつとして、しばしば画題として取り上げられてきた。ここでは、竹のたもとで飲茶しながら寛ぐ司馬光の姿を描く。
甲申夏日琴石寫於漬畫摟南窓下

 

74「月瀬真景図」明治15年(1882)森家蔵

梅の名所として知られる奈良市東北端の月ケ瀬の景観を描いた横披(横長の巻物)。
月ケ瀬は近世後半から梁川星巌、頼山陽、篠崎小竹をはじめ、多くの文人墨客が訪れて
おり 森琴石も何度も訪れている。名張川(五月川)の両岸には 満開の梅花が咲き
春の訪れが感じられ、画面中ほどには川を横切る渡し舟の姿もみられる。本作は、明治15年(1882)の 第1回農商務省内国絵画共進会で褒状を得た。題は衛鋳生が、跋文は胡鉄梅、書家の陳曼寿、石橋雲来が、題箋を黄超會が記しており、いずれも本作の受賞を祝う内容となっている。

 

75「山水図」明治30年(1897)泉屋博古館東京

山中へと続く道を進む二人の文人が描かれている。山の奥には滝も見え、日常の喧騒から離れた理想郷が広がる。明治30年(1897)、54才の琴石は家督を息子の雄二に譲り、絵画制作に打ち込むようになる。とりわけ、この時期琴石は大幅の青緑山水図を多く描いていたことが知られており、本作もそうしたひとつである。青緑山水は岩絵の具の青緑や群青を多用して描く山水で、水墨の濃淡を駆使して描く南画とは趣が異なり、硬質な雰囲気の作品が多い。

繍壁蓮峰草春全呉一望掌中分千花   / 暖送和香気大地晴翻訳錯錦便文潤道斜通 /  回谷底潭光倒映浴天雯帰来指点径行 / 処翠鎖重巒総暮雲 丁酉夏日写於 /  聴香読画蘆南窓下

 

76「群花双鶏図」明治30年(1897)西宮K氏コレクション

牡丹、水仙、松、竹、梅、菊などの植物に鶏が配されている。牡丹は富貴と繁栄の永続、仙は仙人を意味し群生していることから 群仙、松と菊は不老長寿、竹は平安や成長、梅は子孫繁栄(子授け)を意味し、太湖石は長寿の象徴である。また、鶏も大鶏の同音は大吉につながることから吉祥の生き物とされてきた。なんともおめでたい吉祥尽くしの一幅である。

 

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ご参考まで

明治18年8月 新聞記事(国立国会図書館次世代ライブラリー)

森琴石(画家)=大阪の十秀者投票に選ばれた

 

胡鉄梅&森琴石
近聞広告

画像ご提供者=陳捷 氏
(東京大学大学院教授)
旅する書物を追って中国から日本にやって来た研究者。
| UTOKYO VOICES 082 | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)
陳 捷 (CHIN JIE) – マイポータル – researchmap

・下記画像は、陳捷氏より森琴石HPへの掲載を許可を頂きました
・記事画像及び翻刻文は、後月 森琴石HP ~資料編~などでご紹介の予定
・・

広告文は
京都国立博物館研究紀要『学叢』第44号(2022年6月・呉孟晋氏、陳捷氏執筆)で活字紹介されています

 

明治15年8月28日 

 

明治15年11月9日

      

明治18年4月23日

    

 

明治18年7月25日

 

森琴石死亡時の記事(大正2年2月)

 

 

 

 

 

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「住吉図」の下絵(森琴石)⇒ 四代目「竹本住大夫」の 辞世の句を入れ、版画となる

2022年11月25日 更新

 

森琴石の交友の広さを知る資料

 

森琴石
4代目  竹本住大夫「追善する刷り物」画を描く

 

 

竹本 住大夫(たけもと すみたゆう)は、義太夫節の太夫。
7代を数える。

芸名の由来は初代の出身地であった摂津国住吉に由来する。(ウィキペディア=竹本住大夫 – Wikipedia

 

 

森琴石下絵「住吉図」

(39,8㎝x51.8㎝)

 

モノクロ写真をコピーしたもの

版画の下絵=住吉図(4代目竹本住大夫ノ辞世の句が版画には入る)
        ⇓ 

木版 画=四代目竹本住大夫 追善版画

明治23年 ・ 38.5cmⅹ51.5cm(下絵もほぼ同寸)
(画像は後日削除の可能性があります)


版画 竹本住大夫 辞世の句入り 森琴石画

 

四代目竹本住大夫について

竹本 住太夫(4代目)

職業:義太夫節太夫(文楽)
専門:人形浄瑠璃
本名:竹中 喜代松
別名前名=竹本 田喜太夫
生年月日:文政12年
出生地:紀伊国田辺(和歌山県)
経歴
4代目竹本内匠太夫に入門。のち3代目竹本長門太夫の預り弟子になり、
安政7年(1860年)1月4代目竹本住太夫を襲名
盲目の美声で鳴らし、「大文字屋」「阿波の鳴門」などの世話物を得意とした。
明治17年文楽座から彦六座へ移り、三味線方・豊沢団平らと彦六座全盛期を築いた

没年月日:明治22年 1月22日 (1889年)

(『新撰 芸能人物事典 明治~平成』・ウィキペディア など)

 

歌舞伎役者と森琴石
「嵐 璃寛}

www.morikinseki.com › chousa

2008/05/25  「嵐璃寛」は、明治27年5月21日に亡くなった。6年後の法事に配られた「第四世嵐璃寛 七回忌追善句集」は、表紙には<森琴石筆 観音図>で飾 …

 

四代嵐璃寛 追善句集
表紙 森琴石筆「観音図」

22.0cm x 56.0cm
表紙 森琴石筆「観音図」
5世嵐璃寛
庚子春日 琴石寫
www.morikinseki.com › chousa

サムネイル画像

先月度でご紹介した、大阪の歌舞伎役者”四世 嵐璃寛”の実父である”三世 嵐璃寛”の父は、”生島岩五郎”という旅役者だった。”三世 嵐璃寛”は、最初2代目尾上多見蔵の …
(生島恒次郎については 森琴石刻『高知県管内阿波国改正図』原図者は徳島の漢学者 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com) 

 

森家には
能楽師を描いた下絵が多数あり、
美しい彩色の かなり大きな下絵が存在する

 

 

 

 

 

 

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熊本県立図書館…赤星家文書 [響泉堂出版] ・・・8点所蔵

2022年9月23日 更新

 

熊本県立図書館
赤星家文書
・・大阪響泉堂出版  点所蔵

熊本県立図書館
『掌中四声玉編』1878年、384頁)も所蔵

 

森琴石と熊本県(今後の課題)

 

赤星家 赤星 陸治あかほし りくじ)について

(1)
日本紳士録 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

赤星陸治(あかほし りくじ)
君は熊本縣八代郡の舊家にして御總庄屋と稱せる豪家下山群太の二男なり
明治七年一月を以て生れ同縣士族赤星家の養子となり
同三十五年家督を相續す
同三十四年東京帝國大學法科大學政治科を卒業し
三菱合資會社に入り 小岩井農場長地所部長 總務課長兼理事を經て參與に擧げられ
現に地所部長の職に在り
家族は尚三男連三(明四三、四生)四男久禮男(同四四、一二生)三女千賀子(大四、三生)あり

(2)ウィキペディア より
赤星陸治(あかほし りくじ)
1874年1月9日- 1942年3月28日
日本の実業家。
三菱財閥に入社し、小岩井農場場長三菱地所社長・会長などを務めた。
多彩な趣味を持ち、剣道、弓道、尺八、俳句などを嗜んだ。
俳句については内藤鳴雪、高浜虚子に師事し、「水竹居」の俳号をもつ。
陸治の生家は息子によって鏡町に寄贈され、現在赤星公園として残っている。公園内にある「六角堂」は陸治が妻の死を受けて建立した観音堂で、鏡町の指定文化財となった。

 

赤星(あかほし)氏
日本の氏族のひとつ。 中世に肥後国菊池郡を本拠とした国人領主の一族である。 菊池氏の一族で、菊池武房の弟の赤星有隆を祖とし、隈部氏、城氏と共に菊池氏の三家老家の一つ。 家紋は菊池氏と同じく並び鷹羽。
家祖: 赤星経俊、赤星有隆
出身地: 肥後国菊池郡赤星
著名な人物: 赤星統家
本姓: 菊池氏流
(ウィキペディア)

 

★雲林院 蘇山(うじい そざん)

南画同志会…メンバー(森琴石とは同志)

『画家小伝』より
雲林院蘇山先生 (熊本)七十六歳
先生は熊本の人 幼より畫を好み木下逸雲に師事し後ち筆を携えて各地を漫遊す
足跡の印する所全国に普く 故川田日本銀行総裁の知遇を得て岩崎久彌本邸に留り
東都上流縉紳の為め艶麗の筆を揮うこと十数年
近時熊本の敷居旧居に帰臥して全く世故と断ち専心画筆に親しめり
昨夏 伏見宮殿下の特命検閲使として熊城に駕を駐めらるるや
殿下親しく先生の画筆を愛せられ数葉の揮寫を命ぜらる
実に老熟錬磨の筆緻は坐ろに人をして美に酔はしむるものあり
亦た逸品たるを失わず
(『画家小伝』=小倉市大阪町8丁目 南画同志会蔵版 明治44年2月版 非買品
   『画家小伝』は、世間で知られていない貴重な情報が記述されています


岩崎久弥=岩崎弥太郎の長男、三菱財閥の三代目総帥となる
川田小一郎=
[1836~1896]実業家。土佐の人。岩崎弥太郎が創立した九十九(つくも)商会(後の三菱商会)に幹部として参加、鉱山事業を統括し、三菱財閥創業期の功労者として活躍した。後に日本銀行総裁に就任して強い指導力を発揮、「日銀の法王」と呼ばれた。また高橋是清を登用するなど、人材の育成にも力を注いデジタル大辞泉

 

★森琴石周辺に
浮田和民、亀山 昇 の存在

●浮田和民(うきた かずたみ)
日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。 軍人の石光真清、石光真臣兄弟は従兄弟にあたる。和民の母は栃原知定の姉、先妻・末、後妻・五女は共に下村孝太郎の妹である。長女・操は原安三郎の妻、次女・恵美子の子は若林貴世志、三女・東子の子は浮田克躬。 
(ウィキペディア)

森琴石HP
森琴石塾生「河村学而」=成瀬仁蔵の妻の叔父 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)

●亀山 (かめやま のぼる)
熊本バンドの一人。 肥後国八代に生まれる。熊本洋学校時代に1876年1月30日に花岡山の奉教の誓いに加わる。4月にL.L.ジェーンズより洗礼を受ける。同年9月に同志社英学校に入学する。12月に西京第二公会に金森通倫と徳富猪一郎、上原方立と一緒に入会する。 (ウィキペディア)

※浮田和民、亀山昇…共に熊本洋学校出身、熊本バンドの一員

熊本バンド
明治初期に熊本洋学校の生徒が結成したキリスト教徒のグループ。米国人教師ジェーンズの感化を受けた海老名弾正徳富蘇峰ら35名が明治9年(1876)、熊本城外の花岡山に集い、信仰を守り広めることを誓約した。後、その多くが京都の同志社英学校に移り、熊本バンドと呼ばれた。横浜バンド札幌バンドと並んで日本のプロテスタントの三大源流の一つとされる。(
デジタル大辞泉)

亀山昇については、12月頃、別途資料でご紹介の予定です

 

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熊本県立図書館
赤星家文書・・・響泉堂出版分

―以下は 熊本県立図書館 蔵書検索結果のデータを使用させて頂きました―
(年代と文書番号の順序の内 ⑤と⑥は一致しないようです)

ご参考
[序言] 十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録 (kumamoto-u.ac.jp)

 


永田氏改正暗射訳図(大阪書林 岡田蔵)[古]
出版:大阪響泉堂
 1875年 
 (赤星家文書
一枚
71×93㎝


褒賞状[古]
出版:大阪響泉堂
1887年 
 (赤星家文書 ; 658) 
 1通
22.9×30.9㎝ 
熊本県士族 赤星五郎八宛


褒賞状[古]
出版:大阪響泉堂
1891年11月
(赤星家文書 ; 659)
1通
22.6×30.7㎝
熊本県士族 赤星モカ宛
(明治24年9月暴風の際、罹災者へ精米二斗救助の件)


褒賞状
[古]
出版;大阪響泉堂
1892年10月
(赤星家文書 ; 660)
1通
22.7×30.8㎝
熊本県士族 赤星モカ宛
(尋常文政小学校新築費寄付の件)


褒賞状 [古]
出版;大阪響泉堂
(赤星家文書;662)
1895年9月
22.8×30.8㎝
熊本県士族 赤星もか宛
(明治28年7月暴風雨ノ際八代郡文政村罹災ノ窮民救助米施与の件)


褒賞状 [古]

出版:大阪響泉堂
1896年3月
 (赤星家文書 ; 661)
1通
22.8×30.8㎝
熊本県士族 赤星モカ宛
(明治27、8年戦役従軍者家族中窘窮ノ向賑恤金差出の件)


褒賞状 [古]

出版:大阪響泉堂

熊本県知事大浦兼武著
1897年4月
 (赤星家文書 ; 644)
1通
28.0×20.3㎝
赤星茂賀宛
(明治27、8年戦役ノ際軍用品献納)


褒賞状 [古]
出版:大阪響泉堂

1900年12月

赤星家文書
1通

22.7×30.8㎝
熊本市士族 赤星もか宛
(明治30年10月慈恵救済資金寄付の件)

 

 

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永田氏改正暗射地球訳図

●横浜市立大学学術情報センターの画像をご覧ください
永田氏改正暗射地球訳図 | 横浜市立大学所蔵の古地図データベース | 横浜市立大学学術情報センター (yokohama-cu.ac.jp)

●森琴石HPでは多数取り上げています
森琴石 調査情報【平成17年 1月】 (morikinseki.com)

 

雲林院 蘇山

戸田葆堂の日記に名が出る
戸田葆堂 とだほどう(1851~1908) (shiki-cogito.net)
『問鶴園遺稿』
大正5年1月1日 戸田葆堂著; 木蘇岐山點定; 牧野鐵九郎編輯
.問鶴園図(森琴石 画)葆堂肖像(大橋翠石 画)他)
.. 明治三十六年癸卯六月十四日 時季五十三 葆堂戸田光 … 三月二十七日:雲林院(ウジイ)蘇山來訪。

大浦兼武(おおうら かねたけ)
官僚、政治家。薩摩藩(鹿児島県)出身。警察畑から昇進し、山県有朋系の官僚として警視総監、各省大臣を歴任。大正四年(一九一五)、選挙干渉と議員買収事件を追及されて引退。嘉永三~大正七年(一八五〇‐一九一八)
(精選版 日本国語大辞典)

 

 

 

 

 

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