日英博覧会(明治43年)、森琴石の作品がヨーロッパで激賞…『大正人名辞典』

2020年9月2日 更新

日英博覧会(明治43年)
森琴石 出品作品【松林山水図】がヨーロッパで激賞
         英国雑誌「スタヂオ」に画が掲載
         ⇓
       『大正大正人名辞典』に記述

■大阪府吹田市の大塚融氏より、森琴石伝記資料を送信して頂きました。

■「日英博覧会で、森琴石が出品した作品が賞賛された…という 伝記がありました!」と、ご連絡を頂き、森琴石が記載されている部分の画像をお送り頂きました。

■大塚融氏からは『浪花摘英』の全冊コピーをご送付頂くなど、森琴石調査の初期から多大なご協力を頂いています。

※大塚融氏
昭和39年一橋大学経済学部卒、NHK東京報道局に記者として入局。昭和49年大阪局報道部にて関西経済界全般を担当。平成7年「NHK大阪放送局70年史」、平成17年「NHK大阪放送局80年史年表」編纂・執筆。平成12年10月~17年3月神戸大学文学部非常勤講師。平成15年「大和証券百年史」編纂・執筆。
   (www.suzukishoten-museum.com/blog/post-301.php

大塚融氏は、<蘭の木版画>で著名な{加賀正太郎}の後輩(一橋大学)でもあり、加賀正太郎の木版画のコレクターとしても知られています。

京都 芸艸堂(うんそうどう)サイト
キュー植物園と当館で「蘭花譜」展示 | 大阪の植物園-咲くやこの花館- (sakuyakonohana.jp)

■2019年10月、イギリスの王立キュー植物園で{蘭花譜」の展示会が開催され、大塚融氏のコレクションも展示されました。

キューブックスでは<全作品のランの写真入りの分厚い書籍>を出版しました。

※加賀正太郎1888―1954
実家は大阪船場の商家「富商加賀商店」で江戸時代から両替商を営んでおり、明治に入ると証券業にも参入していた。東京高等商業(現在の一橋大)で学ぶと、22歳の時にヨーロッパに遊学。 ロンドンの日英博覧会を見学すると、アルプスのユングフラウ(標高4158m)には、日本人で初めて登頂している。日本近代登山の先達の一人である。イギリスでは英国王立の植物園であるキュー・ガーデンでなどで蘭栽培を見学し、園芸にも深い関心を持つようになった

1936年(昭和11)紺綬(こんじゅ)褒章受章。日本山岳会名誉会員。
著書に『蘭花譜(らんかふ)』がある。
―ウィキペディ & コトバンク―

▼森琴石の門下「山名友石」は、『珍花図譜』(明治38年・芸艸堂)を、鮮やかな色彩と大胆な構図で蘭などを描いている。  ※珍花図譜…京都京都山崎書店 珍花図譜/Chinka Zufu / 美術書山崎書店

■森琴石が、明治43年”日英博覧会”に出品した「松林山水図」の所在は不明です。
もしかすると 展覧会後、日本や欧州のどなたかに購入して頂いた可能性もあります。

日英博覧会の資料に ~森琴石自筆控帳~
明治43年3月10日付
「日英博覧会・押川則吉・スチュージオ」等の文字を記した頁があります。

※押川則吉
  1863年2月7日(文久2年12月19日) – 1918年(大正7年)2月18日)は、日本の農務・内務官僚、
  政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。幼名・千代太郎。 

  薩摩藩士・押川乙五郎の長男として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。
・・1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。
・・1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。

  1888年5月から1891年9月まで、仏国巴里府万国大博覧会事務官補などとしてヨーロッパに駐在した
・・帰国後、1892年3月に農商務技師となる。

  1895年5月、陸軍省雇員・大本営付として台湾に赴任。同月、台湾総督府が設置され、民政局殖産部
  務課長心得に就任。さらに、兼参事官心得、民政局殖産部長を歴任した。
・・・・・・以下略 byウィキペディア 

■what’s New でも 日英博覧会について 記述しています。
森琴石の作品所蔵者:塚本 靖 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)

資料

『大正人名辞典』 画像
資料ご提供者=大塚融氏(元NHK経済記者・数寄者研究家・経営史研究家)

森琴石「響泉堂」 森琴石紹介 Mori Kinseki | ―南画編― 大正時代 
              【3】大正人名辞典をご覧ください

大正人名辞典 大塚氏 より大正3年10月第1版発行

下方に活字にしたものがあります。

松林山水図


ドイツ【ハイデルベルク大学 データベース】 で画像が閲覧できます
是非ご覧ください
・・・・
 https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/studio1910b/0142

※ハイデンベルク大学
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルクにある総合大学。
1386年創立でドイツ最古の大学。通称はハイデルベルク大学。
                ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク – Wikipedia


コピー画像(森琴石孫、故飯田知子氏より)

イギリス スタヂオ誌 森琴石「松林山水」

②日英博覧会資料・・・成立の概説

日英博覧会
        

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『大正大正人名辞典』
  附日本帝国之富力 商工業発達史
  東洋新報社蔵版

森 琴石君 
        △出生地 大阪府
                           △現住所 大阪 北 北野高垣 12434
                           △生年月 天保14年3月19日
画家
大阪の南画界に於いて最も人格の高逸にして人に接するに謙遜、自から持すること頗る謹厳、而も名に奔らず利に赴かず、古希の齢を以て尚入神の技を研き、芸林の為に献身的努力を為しつゝある人物を索むれば、何人も琴石翁森君其人を推すに踟蹰せざるべし、

 翁は梶木源次郎氏の家に生まれ、襁褓にして森善作氏の子となり其姓を冒す、夙に絵画を好み且天賦の才あり、嘉永3年8月初めて大阪の画家鼎金城の門に入りて画法を学び、文久元年6月金城没後、忍頂寺青村に師事して南宗派の描法を修得し、元治2年3月浪華の大儒妻鹿友樵、高木退蔵諸碩に就き漢籍及び詩文を学べり、

明治6年3月   
東京の洋画家高橋由一に師事して洋画を習得し、以て東西画法の長短を究め、爾来筆を載せて東西を漫遊し 全国の名山大江を跋渉して自然に接触し、同時に各地の名家を叩いて其技を練り、更に道を問うこと多年、而して寸暇を得れば即ち古人の遺書に眼を曝して其範を採り自己芸術の向上に資せしを以て、其技愈々円熟するに至りて、遂に大家の班に入れり、是に於いて乎画名端なく丹青界を壓するを見る、

明治16年全国絵画品評会を発企し、学画会、點晴会,扶桑絵画教会、日本南画会等を設立して斯道の発展に力を盡し、翌17年秋全国絵画品評会を大阪に開き、23年樋口三郎兵衛氏と共に浪華画学校を設立して教鞭を執り美術界の為に努力し、又後進養成に意を用うる等、翁の功績実に顕著なるものあり、

 同年9月宮内省より御用画の命を拝し、同28年日清戦役の当時 先帝陛下大纛を広島に前めらるゝや、翁は2幅の山水画を揮毫して献上し御嘉納あらせらる、以て絶代の名誉と謂うべし、35年5月 今上天皇の儲宮にて座せし当時、御慶事奉祝画を献納して是亦御嘉納を受け、翌年内閣勲章局より功により銀杯下付の光栄に浴す

43年大英国倫敦府に開催せられたる日英大博覧会には『松林山林』の大作を出品して欧州人の激賞を博し、以て有名なる英国の美術雑誌「スタジオ」に讃辞を掲げられたり、

 是より先 日本美術協会第1部委員、其他 東京、京都、名古屋、大阪等に開催せっれたる各種の博覧会、展覧会等に顧問、審査委員等の嘱託を受けたること10数回の多きに達し、又作品の宮廷御用品となること数次、而して毎博覧会、展覧会に出品して金銀銅牌、銀盃、木盃を授与されしは枚挙に遑あらず、

尚著書には南画独学、題画詩林、墨場必携等あり、書名既に内外に振い、真に我国美術界の耆宿を以て重ぜらるゝもの故なきあらず、

 大正2年8月復た第7回文展審査委員に挙げられるたるは、大阪画家としては翁を以て嚆矢とす、今や幾多の公私画会の顧問、委員、又は評議員として斯界に貢献しつゝあるは、真に仰欽するに餘りあり、

 ※一部の旧漢字は当用漢字に改め、漢数字は一アラビア数字に置き換え、字間・行間など変更しています

 

 

 

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