2012年5月31日 更新
森琴石の作品 及び 所蔵者について
森琴石HPの<森琴石作品紹介>や調査情報では、森琴石の作品の一部をご紹介しています。森琴石ホームページでまだ取り上げていなかったもの、近年取得した資料の中から森琴石の作品や所蔵者の情報をお知らせしたいと思います。
『日本画大成26 大正篇3』所載、森琴石の作品と所蔵者
■『日本画大成 』 という美術書がある。
顧問や監修者には美術界の大物が名を連ねている。
全作品には所蔵者の名前と、写真が添えられている。
一部はカラー、殆どはモノクロ写真で、その後の飯塚米雨氏の「概説・図版解説」では大正篇の概説と各画家の作品解説と略伝が記述されている。
装丁も立派で、末尾の概説と作品解説は、私共素人にとり大変役に立つ書物です。
■<第26巻 大正篇(3)>に、森琴石の作品4点が掲載されています。
■下に『日本画大成 26 大正篇3』 の目次の概要をご紹介し、次いで森琴石4点のうち第一番目の作品「秋山帰隠図」の解説を転載します。
■編集者の飯塚米雨氏については、多数の著書類はあるが、人物や伝記については手持ちの人物辞典等で調べましたが不明です。
■所蔵者「塚本 靖」について下方に略歴をご紹介します。
■第2番目以降は次回に記述します。
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『日本画大成 26 大正篇3』 概要
東方書院発行/昭和8年4月10日発行
(※以下氏名以外は、旧漢字は現在の漢字に置き換えた)
顧問(50音順)
岡田三郎助・川合玉堂・竹内栖鳳・山本春擧・結城素明・横山大顴・和田英作
監修(同)
笹川臨風・塚本靖・内藤湖南・正木直彦
編輯
飯塚米雨
目次
標題
目次 尾形月耕筆(10) 下條桂谷筆(4) 佐久間鐵園(22) 狩野探溟(2) 荒木寬友(4)
奧原晴翠(2) 柳川柳塘(1)
久保井華畦(1) 松本楓湖(13) 池田輝方(12) 端館紫川(2) 栗原玉葉(8) 岸光景(2)
河合英忠(7)
跡見花蹊(1) 宗星石(5) 太田文暉(1) 佐竹永邨(3) 山本梅莊(5) 今尾景年(12)
在原古玩(1)
富岡鐵齋(16) 森琴石(4) 田近竹邨(6) 内海吉堂(4) 山田介堂(2)
森注:( )に作品数を入れました、それぞれの作品につき写真が1頁分添えられています。
大正篇概説(三)……飯塚米雨
図版解説・・・・・・・・飯塚米雨
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■森琴石の作品と所蔵者
第135図 秋山帰隠図 塚本靖蔵
第136図 月瀬真景図 芝川又右衛門蔵
第137図 蓬莱瑞靄図 清水復三郎蔵
第138図 夏川観瀑図 同
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第1回目
「秋山帰隠図」 と 所蔵者「塚本 靖」
森 琴 石 筆
第135図 「秋山帰隠図」
絹本淡彩。高さ7寸2分(約22cm)、潤さ1尺3寸5分(約40cm)
款に『秋山帰隠。戊戌秋日写 於読画廬南窓下 琴石』と、明治31年秋の作。
舟にて帰り来る高士を点景にして、秋山佳絶の景を展開したもので、南宋山水として好ましい穏かさをもっている。
★森琴石の画帖などでは似た作風のものを見かけるが、非常に丁寧に描かれている。
印=「玩古」
★所蔵者の塚本靖氏と森琴石の関係は、これまでの調査では知る事がなかったが、下方の略歴にあるように、明治42年の日英博覧会の為の渡英や、帝室技芸員の選択委員をしている事、文展審査委員を務めた事等、美術界では何らかの接点があったと思われる。
★塚本靖は、建築学に於いては辰野金吾を良く支えたそうですが、辰野金吾については少し気になった時期がありました。
森琴石の長女「昇」の長女「高子 こうこ」は、「タツノ」という苗字の”大金持ち”の建築家の子息に嫁いだのだそうです。
ところが高子は若くして亡くなり、夫も早世、二人の間には子供が無かったそうです。
この話は、高子の妹「加津(森 雄次の養女となる)」の2女飯田知子さんから聞いた話ですが、飯田知子さんもそれ以上の詳しい話はご存知無いとの事です。
※高子と加津については、二人の写真が、森琴石HP:孫森加津の日誌に載せています。
★私共の祖母(雄次の妻、梅子) の家系は、佐賀の弘道館で教授を務めるなど、代々佐賀藩の要職に就いていました。
梅子の父「入江俊次郎」は大隈重信の執事として永年大隈重信を支えてきたが、入江家は元々佐賀 では大隈家より、家の格が上位にあったのだそうです。
森琴石の周囲に、佐賀出身の文化人との繋がり見えるのはその所以かもしれません※。
※森琴石HP:係累人物、関係人物「馬渡俊猷(まわたり しゅんゆう)」 等をご覧下さい。
★飯田知子さんの話を伺った後、高子の嫁ぎ先の「タツノ」姓の富豪の建築家は、もしかすると辰野金吾では無いか?と、邪推した事もありましたが、余りに高名な方なので、<まゆつば>としか受け取られなと思い、森琴石HPでは取り上げなかったのです。
高子には血を分けた子も無く、身内で高子と「タツノ」氏との婚姻については知る人がいない。
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塚本 靖 略歴
東京文化財研究所刊 『日本美術年鑑』 所載物故記事より 転載
◍東京帝国大学名誉教授、帝国芸術院会員(正3位勲2等)工学博士塚本靖は豫て胃癌の為病臥中の処8月9日小石川の自邸で逝去した。享年69。我国建築及美術工芸界の耆宿であり、教育者として又実際家として幾多の功績を貽し、人格的にも徳望篤く、其の長逝は各方面の惜む処であつた。
略歴
◖明治2年京都に生れ、
◖同26年東京帝国大学造家学科を卒業後大学院に於て建築装飾法の研究に従事、
◖31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託せられ、
◖翌32年助教授に任命、同年より35年迄建築学研究の為、英仏独3ヶ国に留学、帰朝するや直ちに教授に陞任、
◖翌36年工学博士の学位を授けられた。
◖38年特許局審査員を命ぜられ、翌39年、貿易工芸品の意匠調査の為清国に差遣、翌年帰朝、◖41年再び差遣さる。
◖42年日英博覧会の用務の為英国へ出張を命ぜられ、翌43年1月出発、同10月帰朝した。
◖同43年議院建築準備委員会臨時委員を仰付られ、又特許局技師に任命。
◖大正4年明治神宮造営局評議員を仰付られ、同5年帝室技芸員撰択委員
◖翌年、古社寺保存会委員を仰付らる。
◖同7年明治神宮造営局参与、又臨時議院建築局常務顧問を仰付らる。
◖8年東京帝国大学工学部講堂並教室及実験室新築工事設計を嘱託さる。
◖翌9年宮内省内匠寮御用掛を仰付られ、同年東京帝国大学工学部長に補せらる。
◖11年特許局審判官を命ぜられ、同年勲2等に叙せられ瑞宝章を授けられた。
◖12年工学部長を免ぜられ、同大学評議員、旅順工科大学商議員の任に就いた。
◖14年営繕管財局顧問を仰付られ、翌15年より昭和4年迄再度東京帝国大学工学部長に補せらる。
◖昭和4年同大学教授を免ぜられ、同時に正3位に叙せられ、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。
◖昭和10年、同大学より工芸史に関する調査を嘱託さる。
◖同12年、紀元二千六百年記念日本万国博覧会々場計画委員会委員を嘱託され、同年6月帝国芸術院創設さるるや会員を仰付られた。
◖逝去に際しては、畏き辺より生前の建築界に致せる功績顕著なるを思召され特に金杯1個を下賜あらせられる旨の御沙汰があつた。
◖上記の他に明治40年より連年7回に亙り文展審査員を命ぜられたのを始め、幾多の工芸展及博覧会等の鑑査、審査に鞅掌し、工芸美術界に貢献せる処多大であつた。
◖又、博士の東西古美術に関する著作は多数に上るが、略歴年表と共に其の目録は建築雑誌(第51輯、第631号)に紹介されてある。
◖昭和12年8月9日没
塚本靖 つかもと-やすし (コトバンクより転載)
1869-1937 明治-昭和時代前期の建築学者。
明治2年2月15日生まれ。
32年母校東京帝大の助教授となり,ヨーロッパに留学後の35年教授,大正11年工学部長。建築意匠を研究し,論文「日光廟(びょう)装飾論」で知られる。
日本建築学会会長。芸術院会員。
昭和12年8月9日死去。69歳。京都出身。