森琴石塾生「米津菱江」=画家、教材製作、宣教師として活躍

2021年7月10日  更新

塾生「河村学而・米津菱江」=明治初期 大阪のキリスト教会創設メンバーだった | 森琴石 What’s New (morikinseki.com) につづきます

米津菱江(号方舟)

画家・・・・森琴石同門(忍頂寺静香村)
教材製作・・教科書・地図・地球儀
宣教師・・・浪花公会(教会・明治10年大阪)創設者のひとり
・・・・・・新宮教会創設時の宣教師
・・・・・・      ☝米津方舟の名で布教活動
・・・・米津方舟の名で布教活動

米津菱江は日根対山、忍頂寺静村(梅谷)、岡田九茄と、3人の師匠に画を学んだ。
米津菱江と森琴石は、忍頂寺静村の同じ門下生となる。

米津菱江は、明治9年4月10日、森琴石妻{ゑい」死亡時の記録
<諸事控帳:焼香順 塾> に河村学而と共に筆頭に名ガ記されている。 塾 河村 米津

河村学而・米津菱江は明治10年、大阪の浪花公会の創立メンバーで、同志は全て敬虔なクリスチャンで、後年著名学校の創設者、校長や教師などとして身を奉じた人物が多い。信者同士の婚姻も多い。

米津菱江は、明治8年12月『日本地誌畧暗射地圖』を手始めに、10点ばかり
地図、地誌略などの書誌を著編し、明治10年4月には木製の地球儀も製作した。

森琴石の地球儀は、明治7年11月に官許、翌8年3月に刻成した。
米津菱江は森琴石に少し遅れて教材作りに励んだようだ。

■森琴石は既に明治7年には、書誌出版の準備をしていたと思われる。

■地図や地誌類の出版は、江戸時代からの流れらしいが、米津菱江は 維新後の日本の子供たちに、廃藩置県後の日本や 広い世界を知って欲しいとの思いが地誌類などを最初に手掛けたと思われる。あるいは聖書の刊行にも着手していたかも知れない。

明治13年3月『紉斎画賸』の編者を最後に米津菱江の書誌は見当たらない。
ネットでの情報では、明治22年刊の『古今名家新撰書画一覧(東文研データベース 18893C 不判優劣』があります。

■画では某オークションサイトでの明治22年和歌浦で描いた「山水図」があり、現在高値で取引された「山水宴図」なる中国風の細密画がネットに出ています。
残念ながら文字画像が小さすぎ製作年が読めません。

■米津菱江は、クリスチャンとしての布教活動を熱心にしたらしく、明治16年、米津菱江は新宮の大石余平の招聘で、伝道師として浪花教会から新宮に派遣された。

※大石 余平(おおいし よへい)  1854年 – 1891年10月28日
は、長老教会の長老である。 文化学院創立者・西村伊作の実父。幸徳事件で処刑された大石誠之助の兄。教育者・石田アヤの祖父。建築家・坂倉竹之助の曾祖父。​ ウィキペディアより

大石与平、大石誠之助に関する資料は下方をご覧ください。

■米津菱江は引き続き注目してます参ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

料資

米津菱江 略伝
「内国絵画共進会出品人略譜」より
米津菱江

方舟ト號ス、大坂府東區大手通壱丁目ニ住ス 安房ノ人近藤彦四郎ノ男ニシテ 米津清一郎(號奚疑?)ノ養子トナル 日根對山 沙門静村(號梅谷) 岡田九茄等ニ畫法ヲ學ヒ 畿内ヲ歴遊シ叉東海東山ノ諸國ヲ通過スル毎ニ必勝區ヲ胸臆ニ畳ム
  ~森琴石HP~
    ※米津方舟の伝記はこれが一番詳しい。安房=千葉では無く、徳島県と思われる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東文研データベース
古今名家改正南画一覧  1881(明治14) 3D 不判優劣
古今名家新撰書画一覧  1889(明治22) 3C 不判優劣

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浪花公会創設メンバー
  時期:明治10年1月
  メンバー:前神醇一、丁野大八、その妻なか、杉田潮、小泉敦、その妻ぜん
・・・・・・・  西純一、米津綾江(米津菱江)、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの11名
・・・ 牧師:沢山保羅

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

米津菱江、大石与平の資料

資料①
『遊行する牧者: 辻密太郎の生涯』 – 47 ページ

杉井六郎著/1985年9月16日/教文社刊…46頁末~47頁5行目)

明治10年(1,877)1月20日、大阪の高麗橋4丁目心斎橋筋東北角の志摩三紹介に設けられた松村(矩秋出張診察所内に 梅本町公会大阪教会から転会した前神醇一、丁野大八、その妻丁野なか、杉田潮、小泉敦、その小泉妻ぜん、西純一の7名と、 この日、宣教師レビットから洗礼をうける米津綾江(米津菱江)、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの4名を加えて、11名が教会創立メンパーとなり澤山保羅を牧師招聘し、澤山の按手札ならびに就任式がおこなわれて設立された。 

資料②
祿亭大石誠之助』より
(森永英三郎著、岩波書店、1977年10月)

 7頁末~8頁

兄大石余平

誠之助の長兄余平は安政元(1854)年四月十六日に生まれた。前出『我に益あり』で、西村は父余平について、漢学を学び、儒教思想を体得していたが、英語を学んだり、新時代の知識の吸収にも熱心であって、朝から晩まで読書をしていた。一方では日本画を学び、謡曲も習っていたと書いている余平が受けた教養は儒教であったが、英語を学んだことでもわかるように、外来のものにも関心を持っていた。余平も、権威や伝統や世俗に拘泥しない大石一族の血を受けていたので、たやすく外来のものを受けいれることができ、また後述するように、何のためらいもなく、キリスト教に帰依することができたのであろう。
              略
余平は明治十年西村冬と結婚した。冬は安政四(1857)年十一月二日生まれであった。冬の実家西村家は、熊野川の上流である北山川に沿った奈良県吉野郡下北山村上桑原にあって、山持の富豪であり、冬の母もんが支配していた。余平と冬の間に伊作(イサク)、真子(マルコ)、七分(ステイブン)の三人の男の子が生まれた。どれも聖書からえた名前である。うち伊作は西村家をついで西村伊作となり、東京で文化学院を創設したことによって広くしられている。子も七分も、ともにアメリカに学んだ。帰国後の七分は画家となり、心情的アナキストとなったといわれ、大逆事件後の大正七年七月、大杉栄の世話を受けて雑誌『民衆の芸術』を発行したりした。

前出『新宮市誌』(昭和十三年刊)によると、余平は明治十三年十一月、睦世を伴って大阪に出て、親族にあたる木ノ本出身の医師喜田玄卓に睦世の教育のことを託した喜田はキリスト教信者になっていたので、睦世をキリスト教主義の梅花女学校に入学させた。余平は漢訳馬可伝を読んでから喜田に伝道師の派遣を頼んだ。そこで派遣されてきたのが浪花教会員米津方舟山本周作(修作)であるというのである。米津は画家でもあり、余平の家の襖絵を描いたともいう。


webサイト 新宮キリスト教会の活動 (urikomail.jp)

… 1883(明治16)年7月、浪花教会会員で文人画家の米津方舟(よねずほうしゅう)と、聖書販売でやってきた山本周作とが、馬町の寄席でキリスト教演説会を開いた。これが新宮でのキリスト教伝道集会の初め。翌年の6月には、大石余平らの努力で、キリスト教会堂を建立。


webサイト
大石余平(おおいしよへい)の活躍 (urikomail.jp) より
大石誠之助の兄大石余平(1854-1891)とキリスト教との出合いは、余平の生涯を決定づけた。橋渡しをしたのは、妹の睦世(むつよ)。1882(明治15)年睦世は浪花教会牧師沢山保羅(さわやまぽうら)から受洗、翌年兄に漢訳馬可伝(かんやくまかでん)を贈った。まもなく、余平も受洗。新宮教会の献堂にも尽力した。妻冬の実家西村家は大山林家。長男伊作が西村家を相続したが、余平のキリスト教への帰依が西村家との確執を生む。余平は「光塩社」という会社を作って材木売り捌きを業としながら、宣教師ヘールに付き従って紀伊半島でのキリスト教伝道に汗水を垂らす。余平は明治22年の大洪水の際には獅子奮迅の働きをする。被災直後、新宮の地を離れて、岐阜県伏見町での亜炭発掘に関与。その後、名古屋のミッションスクール・名古屋英和学校の宗教・語学の教師になっているが、その2ケ月後濃尾大震災によって、妻冬とともに圧死している。 名古屋英和学校HPより

米津菱江 著書類  国立国会図書館サーチ他(抜けている場合があります)

①『日本地誌畧暗射地圖』

・・・米津菱江製図/明治8年12月・梅原亀七出版 (飜刻)・
・・地図 3枚=色刷 68×90-114×141cm(折りたたみ25cm
②「小学読本字引」
・・・米津菱江編・明治9年4月・梅原亀七・54丁13×18cm
③『大日本暗射地圖』
・・米津菱江製図/明治9年7月・梅原亀七・地図 1枚=色刷
・・・145×143cm (折りたたみ24cm)
④『日本地誌略訳図』
… 米津菱江製図/明治9年5月・浪華書肆 梅原亀七出版)

 日本地誌略訳図 – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) をご覧ください

奥付の住所(明治9年5月 刻成)        森琴石妻ゑい葬儀時記録
第一大区十七小区淡路町三丁目住           明治9年4月10日の住所=淡路町三九橋筋東入
右と左は、同じ住所と思われる

 米津 地誌略訳図奥付 明治9年5月刻成(4月20日お届)           住所・氏名 米津 若林 
⑤『改正 日本地誌略訳図』
・・文部省編纂・米津菱江製図・明治9年5月・浪華書肆 梅原亀七出版・響泉堂刻
⑥『木製 小型地球儀』
  明治10年4月出版
  製図人・米津菱江
  出版人・佐渡島伊兵衛
  木箱:15cm x 9.3cm x9.8cm

  ※佐渡嶋伊兵衛
  明治9年(1876)大阪船場に銅・鉄地金商<佐渡島伊兵衛商店>を創業

⑦『小學用萬國地圖 萬國地誌略譯圖』
  米津菱江編・明治10年2月・梅原亀七・地図 1冊 ; 18cm
⑧『改正日本地誌畧暗射地圖』
  米津菱江編・明治10年9月・梅原亀七・地図 4枚=色刷
   72×97-149×109cm (折りたたみ25cm)
⑨『紉斎画賸 じんさいがじょう
  陳允升(清)著・米津菱江編・明治13年3月・赤志忠雅堂(大阪)
  4冊(天・地・玄・黄) 20㎝
    注:光諸3 陳允升氏得古歡堂刊の翻刻
    ※陳允升(ちん いんしょう)=1820~1884 字吉甫,字仲升,号纫斋,浙江鄞县人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考資料

明治8年 森琴石及び響泉堂書誌
 ①の『小型地球儀』以外は
『森琴石作品集』資料 熊田 司編 響泉堂所鐫銅版書目(219頁)のデータを使用させて頂きました

①『小型地球儀』         木箱、大きさ比較 -
  明治7年11月官許
同 8年3月刻成
森琴石校正併蔵版
岡田茂兵衛発兌    

②『朝鮮国全図』沢井満輝 著述
  明治8年(1875)・森本太助
  銅版刷彩 一鋪 47.3cm×69.8cm  
  右下に「大阪 響泉堂銅製」  

 ③藤井新助 縮図・校正『地球新図(地球全図)』
  明治8年・藤井新助 蔵
  銅版刷彩 一鋪 46cm×61cm
  右下に「森琴石刻」 【参照=香川大学附属図書館】

 ④永田方正 訳『暗射地球訳図』
  明治8年(新鐫)・大阪書林岡田 蔵
  銅版刷彩 一鋪 71.5cm×92.5cm
  左下に「大阪 響泉堂銅製」

 

 

PAGE TOP