2022年7月美29日 更新
執行宗雄(しゅぎょう むねお)
■森琴石森琴石門人録(明治30年)に名
■執行宗雄の出身
・・・森家祖母と同郷(佐賀市神崎)
森家祖母「梅子(戸籍名=兎免 うめ)」
佐賀藩入江家=佐賀市神崎郡
・・・森琴石「響泉堂」 森琴石紹介 家族・係累(係累) (morikinseki.com)
森家祖母「梅子」
入江家について
代々佐賀藩の鍋島家に仕えた家系、佐賀藩の儒学者や砲術家など文武両道の血筋を持つ。梅子の父、入江俊次郎は、大隈重信の側近中の側近者で、大隈重信を終生傍で支えた。
入江俊次郎は能筆家で、大隈重信の代筆を務めていたという。
入江家については下方に森琴石HPに記述した分の一部をご紹介しています。
■森槐南主宰
随鴎吟社『随鴎集』に名が出る…漢詩に長けようだ
■号
松堂(森琴石門人録)
・・半田
姓【執行】
シュ ギョウ=シギョウに同じ
福岡県、佐賀県、長崎県。ジッコイ、シッコウ、シュギョウは稀少。職業。執り行う行為から。佐賀県神埼市神埼町神埼の櫛田宮の神主が鎌倉時代に称したと伝える。
佐賀県佐賀市城内が藩庁の佐賀藩士、佐賀県佐賀市蓮池町大字蓮池が藩庁の蓮池藩士に江戸時代にあった。(日本姓氏語源辞典)
資料
(1)
早稲田大学 古典籍総合データベース (waseda.ac.jp)
(古典籍 / 大隈文書 / 明治時代政治史 / 大隈重信 / 大隈関係文書)
執行宗雄書翰 : 大隈伯 (waseda.ac.jp)
・・明治29年8月2日付 大隈伯宛て執行宗雄の書簡
・・住所=武庫郡伊丹
(2)
■森琴石HP:【門人紹介-門人名簿の下書き】
森琴石の下書き:日本美術協会へ提出の門人名簿(M30年11月) | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)
●執行宗雄 号松堂 大阪府豊能雨軍池田村
(3)
日本美術年鑑 第2巻(明治44年度)419p 548コマ
執行宗雄(修行むねお)
号半田。嘉永元年11月13日、佐賀市に生まれる。
画家、南宋画家、始め椿椿屋、のち村田香谷に学ぶ、
日本美術協会会員、
現住所 兵庫県武庫郡甲東村上ヶ原新田15。(
・・・・※現在の兵庫県西宮市甲東園=関西学院大学の近く
(4)
現代日本美術家全録
木沢孚 編画報社 1914(大正3年)
●執行宗雄 號半田 嘉永元年一一月一三 佐賀市生
画家、南画、師村田香谷、美術協会員、
大阪府豐能郡池田村林口一三一〇
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成富椿屋(なるとみ ちんおく) について
成富鵬といい、旧蓮池藩士。初め画を佐賀の中島藍皐に学び、書を大徳寺の僧鉄翁及び、のち画を木下逸雲に学ぶ。さらに長崎に遊び南宋画を修めた。
有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。墓は蓮池の淨国寺にある。
また、淨国寺が火災で焼失しその再建の時、檀家であった椿屋は、その資金捻出のために絵を寄進した。淨国寺ではその絵を売って建設資金としたため蓮池の分限者が買い求めた。○円椿屋と呼ばれ町内にも数点残されていると思われる。
北名では成富椿屋の屋敷を成富屋敷と呼んでいた。
絵師として名高い椿屋さんを彷彿とさせる。
成富椿屋 – さがの歴史・文化お宝帳 (saga-otakara.jp) より
村田香谷 について
●森琴石の親友
●『画家小伝』より
南画同志会蔵版(小倉市大阪町8丁目) 明治44年2月版 非買品
村田香谷先生 (大阪)八十一歳
筑前博多の名儒村田東圃先生の長子なり
海屋貫名崧翁の門に入り刻苦勵精遂に其衣鉢と継ぐ
壮時支那に入り蜀山山峡兩到る所の風物景勝を探り詩囊綿繍を以て充つ
今や阪地の富豪住友吉左衛門氏奉養の意を以て加護せられ殆んど一般の依嘱は之を謝絶し居れり
※
『画家小伝』冒頭の文言 より
顧みれば過去二年の間に於て
本会の中心たりし大雅堂定壱翁、永井香圃翁逝かれて間もなく
木村耕厳翁、細谷立斎翁を失ふ
村田香谷翁老衰して筆を絶つあり
川端玉章翁の老衰せるあり共に痛恨なりとす
大雅堂定壱(たいがどう さだすけ)
画僧。京都生。大雅堂清亮の子。俳句や和歌を能くし、風流閑雅を好んで、悠々自適の生活を送った。明治43年(1910)歿、72才。 著書に『詩学金粉』(明治17)がある。(Weblio辞典)
永井香圃
1839~1911 。天保10年に京都で生まれる。狩野派、土佐派を修め書も能くした。男山八幡宮司。明治44年歿、73歳。日本南画協会「一宮支部発会図録全」第1席の揮毫者。「南画同志会」の中心メンバー。(森琴石HP 索引略伝)
平成17年5月注5」・「平成20年2月【2】■2番目&注3」
木村耕厳
京都で前田暢堂に花鳥画を、中西耕石に山水画を、梁川星巌に詩を学ぶ。また一時期、耕石の養子となる。その後江戸にしばらく居住したのち、筑前若松に来住しこの地で没した。師匠であった耕石の作風を忠実に受け継ぎ、花卉図を得意とした。備後福山鞆津生まれ。(福岡県立美術館データ)
細谷立斎(ほそや りっさい)
831-1911 幕末-明治時代の日本画家。
天保2年生まれ。讃岐(香川県)の人。貫名海屋(ぬきな-かいおく)にまなぶ。
山水,草花の彩色画にすぐれた。兵庫県明石にすんだ。
明治44年11月3日死去。81歳。
名は辰。通称は辰三郎。別号に静黙など。
(コトバンク)
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川端玉章
1842-1913 明治-大正時代の日本画家。
天保13年3月8日生まれ。円山派の中島来章に入門,
江戸でワーグマン,高橋由一に洋画もまなぶ。明治23年東京美術学校(現東京芸大)の教授となり,円山派の画法をおしえた。のち川端画学校を創立。
帝室技芸員。大正2年2月14日死去。72歳。
京都出身。本名は滝之助。別号に敬亭,璋翁。作品に「墨堤春暁図」「桜花鶏図」など。(デジタル版日本人名大辞典)
注目・・・大雅堂定亮以下、細谷立斎以外は京都の生まれ。
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森琴石ホームページ
入江家記述分
係累人物 – 森琴石
入江家は累代妙雲寺を檀家寺とし、見事な供養塔が残されている。 入江兵之助(穆遠)の墓碑には、右(注 上記文章のこと)の銘文が陰刻してある。 ◇入江穆遠の弟入江 …
調査情報 平成19年(3月)
森家祖母「梅子」の実家、佐賀藩入江家は、第九代藩主「鍋島斉直」の時、着座の地位にあり 注5、大目付や長崎御仕組方相談人などの要職に就いていた。係累には砲術に …
調査情報平成17年(2月)
森家の曽祖父のひとり「入江俊次郎 いりえしゅんじろう 」の母方の祖父は、
「武富圯南 たけとみ いなん 」という肥前佐賀藩の儒学者であった。入江俊次郎の曽 …
森琴石調査情報【平成13年】
平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します … 入江家は天正(1570年代)頃より肥前国領主鍋島家に代々仕え、鍋島藩の組頭・御蔵方相談人・大御 …
調査情報平成22年(8月)
曾祖父「入江俊次郎」は、執事として大隈重信を補佐した。入江家ご子孫の話によれば、入江俊次郎は、国内で発生した災害には、大隈重信の名前で寄付などの慈善行為を …
森琴石調査情報【平成18年 2月】
「東京日々新聞」で、「岸田吟香」と同僚の「福地桜痴(源一郎)」は、森家祖母の実家、佐賀藩入江家とも繋がる「馬渡俊猷」の師匠でもある。森琴石周辺には、日本の …
調査情報平成 20年(8月)
平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します … 梅子(戸籍名は兎免 うめ)=佐賀藩入江家の長女・父入江俊次郎は大隈重信の執事。 入江家&入江俊 …
調査情報【平成17年 11月】
森家の祖母方、佐賀「入江家」の菩提寺「妙雲寺」は、山口の「瑠璃光寺」を本寺とする。「瑠璃光寺」では、幕末、志士らが倒幕の密議を交わしていた 注6。
調査情報 平成 18年(3月)
平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します … 大隈久万子の子息、大隈信幸氏とは兄弟のようにして育てられ、特に入江家の5女花子(嫁して斉藤 …
ほか