『 吉田松陰の歴遊』に,増田久左衛門【天誅組義挙の動機人のひとり】の名…森琴石門下 ”増田東洲” の祖父

2022年7月21日 更新

₋吉田松陰-

 嘉永6年2月

・・・脱藩の罪を許され
・・・   遊学の許しを得
・・・・     江戸に赴く途中

・・    増田久左衛門 を 訪問
・・・・・・・・【天誅組義挙の動機人のひとり】
・・・・・・・・・(森琴石門下 増田東洲 の祖父)

増田家=奈良五条町…南朝の功臣の家系

増田久左衛門(第75代目吉野家久左衛門 )=素封家
(吉野家久左衛門の襲名は、この75代で終了する)

増田楢之亮(楢吉=楢之亮  読み=ならのすけ?)=(第75代)久左衛門の長男=医師
増田東洲 (殖=楢之亮長男=大阪医学専門学校を中退、森琴石門下)

・・・・・・・ 

増田楢之亮について(国立国会図書館 次世代デジタルライブラリ―)
『日本医籍録』(医事時論社編・医事時論社刊・1925年)p.12  864コマ
ー大阪府ー 増田楢之亮 弘化2年10月10日生(1846)・西区阿波座3番町19
・・・・・・・・・従来開業明治17年781号

※森琴石より2歳7か月下(森琴石=1843年3月)
大阪大学医学部の前身か? 緒方惟準、堀内謙吉と関わりあるか? 
第7話 適塾から仮病院、大阪医学校へ〜大阪大学医学部の起源〜 – ページ 2 – 東大・京大・医学部研究室 by Y-SAPIX

吉田松陰 – Wikipedia
文政13年8月4日1830年9月20日〉 – 安政6年10月27日1859年11月21日
江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者理論者。「松下村塾」で明治維新
に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

吉田松陰について
⇓下のアドレスでご覧ください
吉田松陰の名言20選!幕末の天才が残した言葉を分かりやすく解説 | Histonary- 楽しくわかる歴史の話 –

増田家の周辺
森田節斎、頼山陽、小石元瑞 などの存在あり

出典=『吉田松陰の遊歴』妻木忠太 著 ・泰山房 ・1941年
・・・天誅組概説奈良県宇智郡五条町 編・奈良県宇智郡五条町 ・1941年
        (国立国会図書館 次世代デジタルライブラリ―)

森琴石 調査情報【平成21年 9月】 (morikinseki.com) の立証資料
★森琴石周辺には 歴史上の傑物が多い
★森琴石が銅鐫に関わった『日本古代史要約 挿図集』
ニコラス・マクラウド著/京都/1878年(明治11年)に収められた肖像画に
 緒方洪庵、吉田松陰と思しき肖像画があるが、人物の特定が出来ていない
  what’s new 2021年12月18日

備考
森琴石「響泉堂」 門人(門弟)紹介–近畿地区 (morikinseki.com)

富田林と吉田松陰 (嘉永6年2月・3月) (biglobe.ne.jp) をご参照ください

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 1:『吉田松陰の遊歴』
・・・妻木忠太 著 ・泰山房 ・1941年 p333-334より転載(188-189コマ)

備考
原文を読みやすくするため、
字間・行間を変更
原文の漢字は一部新漢字に置き換え、
一部( )を付けた
文字サイズ、色を変更した

次世代デジタルライブラリー (ndl.go.jp)
次世代デジタルライブラリー (ndl.go.jp)

       前文 省略
(二)藤井隆庵

父魯庵の養子である。藤井家は高取藩士で、世祿五十石を食み、代々醫を業とした。
隆庵夙に京都に遊び、蘭醫の小石元瑞に學んだ。
賴山陽の妻は、元瑞の養女となつて嫁したのである。
隆庵は資性篤實で勤王の志を抱き、經史に通じて見識に富み、醫業の傍に帷を下して子弟を教授し、一藩に尊重せられな慶應二年正月二十四日五十七で歿した。

(三)藤井重平
松陰の紀行に重平とあるが、十平が正しいのである。
十平は名を敏行、字を君訥といひ、紫泉と號した。
魯庵の長子なるも、故あつて義兄隆庵の後を承けて家を繼いだ。
壯年に及び、大坂に出でて篠崎小竹に師事し、深く經史を研鑽して詩賦を善くした。
隆庵の後を繼いで同じく醫業をなし、閑を以つて其の私塾で子弟を教授した。
明治三十六年九月十日七十七で歿した。

(四)藤井柳亭
通稱を文馬といひ、柳亭は其の號である。
明治の初年に分れて別に家を起し、同じく醫を業とし、夙に種痘を開き、爲に其の名が地方へ聞えた人である。

增田久左衞門仲村德兵衞の略傳

なほ松陰は二月十三日大和の五條町に赴き、文章家の森田謙藏(節齋)を訪ひ、翌十四日之に從つて富田林(今の富田林町)に至り、仲村徳兵衞の宅に投じたことは、に前に之を記した。

是時增田久左衞門が二人に隨行したことが、松陰の癸丑遊歷日錄に見えてゐるので、同じく之を併記した。

そして此の二人のことが判明しないので南河郡富田林町役場へ之を照會した。

其の回示に依れば、仲村德兵衞は酒造業者で、明治十五年十月六日に五十四歳で歿したことが明かになつた。

なほ同町役場の注意にて、增田久左衞門の嫡孫である增田東洲の大阪市外にト居のことが知られた。

其の祖先は南朝以來大和の五條町に住し、後醍醐天皇賀名生の行在所へ馳せ參じて戰死したのである。

松陰の面會した久左衞門は、其の七十五代の孫であつて、仲村德兵衞の親族である。

代々吉野屋久左衞門とも稱したが、素封家であつて、一定の職業なく、安政三年十二月二十八日 四十三で歿した。

其の七十五代の久左衞門が襲名の最後であつて、其の子は楢之亮いひ、東洲氏の父である。

 癸丑遊歷日錄の五月五日よリ同十一日までの抄錄は次の如くである。

五日、晴、發奈良入山城、經加茂笠置大川原島原宿上野、行程九里、加茂以往、皆藤堂侯所領、獨大川原則柳生侯所領也、大川原島原之間、爲山城伊賀界、奈良以往、皆丘陵高下、絕無平田曠野、至上野、地形稍開廓、笠置驛前、横絕一川、是爲木津川、下川十八里、卽大坂也、笠置、後醍醐天皇行在、山勢頗險山下隔一川、而有二聚落、一爲南笠置、一爲北笠置、北笠置、卽余所經也、土人云、山南飛鳥路村、二十戶許、元弘之役、以爲賊徒陶山小見山導、至今他村人民、不興通婚嫁、村中亦有不黨賊之家よ二戶、山傍有」鴟城、當時淺倉佐兵衛所守也、木津之上流、至島原再渡、至上野三渡、並謂之伊賀川、上野有城、藤堂釆女居焉、六日、쑥發上野經山田平松、登長野嶺、嶺上初見勢州海、是伊賀伊勢界也、經長野、至三軒茶屋、左折取ノ路、經片田、入津宿堅町、行程十二里、山田平松長野三軒片田皆驛也、而寥落一小村耳、夜與延岡藩人三宅喜太郞同宿、喜太郞者、槍客也、爲余道道井上八郞及久留米富安豐吉興志之由、豐吉、魚舖子也、八郞、町家奴也、延岡藩多定府士、君侯觀于江戶、在國士送至大坂、在府士迎至大坂、其就藩亦如此、蓋甞聞館林制、        以下省略します


2:『天誅組概説』
・・・奈良県宇智郡五条町 編・奈良県宇智郡五条町 ・1941年

次世代デジタルライブラリー (ndl.go.jp)

天誅組の起立

我が五條に其の端を発した文久の義挙は、実に明治維新の先駆をなすものであつた。
其の天誅組義挙の動機をなすに與つて力のあつた幕末の大立物に森田節斎があり風に勤王の志厚く、五條に於てその教を受けた乾十郎井澤宜庵 北厚治辻又七 増田久左衛門等の如きは共に感化を受けて慷慨気節の士であった。

このやうに懷慨憤世の志士があつたのと、もう一つは往時から尊王の念に厚い十津川郷士が乾十郎等と親しく気脉を通じて居た事などが京都並に詰國の志士の注目する所となって此の僻地に據つて事を挙げるに至つた一因である。

當時大平の夢を貪つてゐた我國の上下は黒船來〃の警報によって大きな刺載をうけ、德川の中世以來次第に疫化し來った尊王的思想は更に接夷と云ふ一層緊張した敵愾的気分を加へ幕府の因循なす所なきを見て慨世の志士は早くも討幕の気勢を示すに至つた。

       以下省略します

 

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増田東洲について

(1)
WEBでの新情報
★森琴石も良くテーマに描いた三国志の作品が、インターネットで出ています。www.tanbi.jp/syoseki/image/57345/57345.html

「甲冑蜀三傑之図」(三幅対・丁卯王月=1927年正月の作品)
明治11年大阪生まれ。森琴石に南画を学ぶ。本名殖、字は子定、号は東洲。
大和五条の名門で、代々医家の長男として生れ、大阪医学専門学校本科に入学するも、「画筆が無上の楽しみ」とし、技能進展に務め大正2年 伊勢大廟に奉納する為画帳の一面を描く。

 ※代々医科の・・・は、誤りのようです

(2)
森琴石 調査情報【平成21年 9月】 (morikinseki.com) など

●祖家の屋敷は後醍醐天皇行宮(あんぐう)に使用された
●良家の育ち/医師の道を断ち画家に転向
●「支那漫遊図録」(三越呉服店展観図録)=増田東洲著/聚楽会発行/大正10年10月1日

■「増田東洲」は、彼の作品が市場に余り出回らない事もあり、森琴石門下としては近藤翠石や佐野岱石に比べ知名度が低い。明治30年、日本美術協会に提出した門弟名簿にはその名が無い事から、増田東洲はそれ以降の入門者と思われる。

■森琴石HP 門人紹介:奈良県「増田東洲」の資料は、大正8年10月に東京電報通信社が出版した「京阪神ニ於ケル事業ト人物」という書物である。
同書は、当時の京阪神の主要な実業家や企業について収録されたもので、サイズもかなり大きくて重い。書物には多くの実業家に混じり、芸術家も少し収録されている。
森琴石一門では、森琴石の他「近藤翠石」と「増田東洲」が収録されている。
当時実力・財力もあったとされる「佐野岱石」や「田川春荘」は収録されていない。
書物は「日本紳士録」と同じように、実力と共に財力が備わる人物が対象。
前払い制<参拾円>という金額は、当時としてはかなり高額な書物である。
書物には、掲載者の家系や家族の個人情報が記載されている。
発行社から掲載伺いを尋ねられた者には、それらに抵抗を覚え、掲載を拒んだ者もあると思われる。

■「増田東洲」を知るその他の資料として、「支那漫遊図録」がある。
これは、大正12年10月、三越呉服店で開催された展観図録である。
図録には、増田東洲が、中国を漫遊した時の景観を描いた作品が収録されている。
図録からは、増田東洲に関する新たな事実を知る事が出来る。

■「支那漫遊図録」によれば、「増田東洲」の家系は大和五条の豪族で、家祖は後醍醐天皇の行宮(あんぐう)として使用されたほどの名家である。
家系には「堀小太郎」という、1330年代の前半に起こった、後醍醐天皇の命を発端に起こった倒幕運動、所謂”元弘の乱
”の功臣がいた。
増田家は、幕末には天誅組に多大な影響を与えた
森田摂斎との係わりがあった。
森田家は大和五条の医家で、増田家とは同郷同業者である。

★「平成15年10月 美保関町雲津 」・「平成16年5月」・「平成17年4月注1 (笠置山)」にもあるように、森琴石は後醍醐天皇の足跡にゆかりのある地を訪れ、スケッチに残したりしている。

★当HPでも、森琴石の周辺には「藤本鉄石」「吉田松蔭」「藤井竹外」「野田笛浦」「頼三樹三郎」などの人物との係わりが見られる。
門下「波多野華涯」のひ孫、小田切家には「藤本鉄石」の作品が相当数残されているという。

●上記のような縁もあり、増田東洲は森琴石の門下となった可能性がある。「平成10年10月」に記述の、森琴石作品の所蔵者の祖先は、後醍醐天皇が乗船した舟を、隠岐まで引導した方。不思議な縁を感じる。

■東洲の父「奈良吉」は、増田家第75代目の医師で、増田東洲は裕福な家庭に育った。
幼少時より絵事を好んだ東洲は、父のあとを継ぐべく医師への道を歩んだが、こころざし半ばで刀圭を断ち、森琴石門に入門した。
筆筋が良く、森琴石指導のもと、めきめきと腕を上げ受賞歴を重ねていく。

 ・・・・・・・以下 省略します
続きは
森琴石 調査情報【平成21年 9月】 (morikinseki.com) をご覧ください

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