2013年8月23日更新
2013年7月17日付
森琴石孫「井上 保」氏からの情報・・・森琴石の事 に続きます
森琴石孫「井上保」氏からの情報
その他の身内&森琴石のエピソード
■森琴石長男「雄二」の異母弟である井上保氏からの書簡には、井上氏の母方の事にも言及していました。
■直系長男である「寿太」の母方である佐賀藩「入江家」については、森琴石HPには多数記述していますが、「寿太」の異母弟妹の母方についての記述は皆無です。
現在と違い、当時の婚姻の成立は「家格のつり合い」が重視されたと思われ、森家とは何らかの関わりがあったと思われるので、今後の参考にと簡単に記述させて頂きます。
■「寿太」の母方の入江家については「佐賀県立図書館」の多大なご協力を皮切りに念入りに調査して参りましたが、「寿太」の異母弟妹の母方の親族についての調査は、一件を除き検証は行っておりません。
下に記述する内容は、井上保氏の書簡を転載するもので真偽については不明です。
※にて、森家の調査で判明した事を補足致します。
森琴石長男「雄二」の妻「ハナ」について
◍「ハナ」は、我が森家の祖母「兎免(通称梅子)」の没後、大正4年7月に祖父「雄二」の後妻となった。
◍「ハナ」は東京の下島雪彦娘で、他に弟と妹がいた。父雪彦は神戸税関長を最後に職を辞した。
※戸籍謄本には、下島雪彦・三津の2女とあり、妹では無く姉がいたようだ。
森琴石の周辺には、井上勤の弟の「堀 春潭(堀 百千 ももち)」が神戸税関に務めていたので、
もしかすると何か関係があるかもと知れないと思い、この書簡の2年後くらいに該当機関に問い合わせをしましたが、歴代税関長名簿には「下村」姓の者は無いとの返事を頂きました。税関長では無かったようです。
◍父雪彦は明治維新までは徳川御三郷の一つ清水家の2百石取りの武士だった。
聞いた話では、下島家となったのは何代か前に下島家の武士の株を買い取った時からという。
先祖は『日本書紀』を書いた舎人親王の領地であった<舎人村 とねりむら>の大庄屋で、「舎人新左衛門」と言う人の子供が江戸に出て下島家の武士の株を買い取ったそうです。
◉父雪彦は、早稲田駅の高台に住み其処で亡くなった。
※武士の株を買ったなどという事は徳川時代には良くあったそうです。
戸籍謄本では雪彦の住所は「牛込区矢来町X番地」、近くに秋葉神社がある。
◍「ハナ」の叔父は「関西大学付属高等学校」の教頭だった。妻は江井ヶ島の酒造家浦部家の次女。
浦部家の「●◉正宗」のラベルは、森琴石がデザインしたらしい。
※浦部では無く「卜部」が正しい。
森琴石のエピソード
大隈邸を訪問時に見たもの
押し入れに反物がいっぱい
森琴石長男「雄二」が、我が森家祖母「(入江」梅子」と婚約した時期、森琴石と「雄二」は大隈邸を訪問した。梅子の父「入江俊次郎」の案内で廊下を歩いていると、廊下に面した押入れの戸が開いているのを偶然目にした。見ると反物がぎっしりと詰まっていた。その多さに驚くと、入江氏が「それらは訪問者への引き出物に使います」との事で、訪問者の多いのに驚いたそうだ。
<はらわた>のある魚は食べない
森琴石は、魚のはらわたは「腹黒い」として、食さなかったそうです。
※恐らく鯵、鰯、サンマのように内臓がついたままの焼き魚のことを意味すると思われる。
刺身や切り身の煮つけなどは食したと思われる。
森雄二のエピソード
下関での事
雄二は転勤先の下関で女中を雇っていた。
その女中がやたらとご飯を食べるので「お腹をこわすよ!」と注意していたら、やはりこわしてしまった。
聞いてみると「実家では白米は祭りの時にしか食べないので、おいしくてたまらない」と言ったそうです。