森琴石塾生「河村学而」=成瀬仁蔵の妻の叔父

2021年6月13日 更新

前回
塾生「河村学而・米津菱江」=明治初期 大阪のキリスト教会創設メンバーだった | 森琴石 What’s New (morikinseki.com) の続き

河村学而は

●森琴石 明治9年4月時点{塾生}の一人

●明治初期 大阪のキリスト教会の創立メンバーだった。

 浪花公会
時期:明治10年1月
  メンバー:前神醇一、丁野大八、その妻なか、杉田潮、小泉敦、その妻ぜん
・・・・・・・西純一、
米津綾江(米津菱江)、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの11名
・・・牧師:沢山保羅

 天満教会
  時期:明治11年2月
  メンバー:小泉敦、妻ぜん、河村学而、妻じゅん、母ゆ幾、服部直一
       福谷新七、妻ゑん、中島みき等の浪花公会員9名
・・・・牧師:沢山保羅

服部直
新島襄と親しくした。 神戸や大阪に伝道活動後、明治14年に北海道浦河西舎に入植、そこが後に農林省の種馬牧場に召される。農業の傍ら聖書の販売をしていた。
妹の満寿枝は成瀬仁蔵と結婚、弟の服部他之助は浪花教会の会員で、新島襄と親交。アメリカ留学の後に同志社に入学、卒業後学習院初等科の教師となる。
柳宗悦は学習院時代、師の服部他之助を尊敬し、キリスト教の信者になったという。
※ご子孫のブログに詳細記述あり ➡我が家のルーツの話 : ねこや食堂日記 (exblog.jp)

小泉敦、沢山保羅=田島藍水の3人の娘と縁あり
姫路藩儒者田島藍水の長姉ぜんは 大阪の梅花女学校校主小泉敦と結婚、次姉多可は同校校長沢山保羅とそれぞれ結婚、長姉ぜんが八〇年に病死した後、小泉敦は3女の佳志と再婚
(『川口恐竜地の研究』ほか』

●成瀬仁蔵没後100年記念 成瀬仁蔵書簡展史料に”河村学而”の書簡が存在

…書簡の備考に、河村学而は<服部満寿枝の叔父>と書かれている。(下方に出典資料)

…成瀬仁蔵は日本女子大学を創設した人物で、妻の服部満寿枝は、天満教会創立メンバーの「服部直一」の妹である事が判明。

…成瀬仁蔵は20歳の時、所属していた大阪・浪花教会の組合教会らの運動で設立された「梅花女学校」の生徒だった服部マスエ(満寿枝)と明治12年に結婚した。
…服部満寿枝は、NHK朝ドラマ{
朝が来た}の鳴沢カナの実在モデルらしい。

…成瀬仁蔵が日本女子大学を創設する際、大隈重信は設立委員長を務めた。
我が家の祖母梅子の父、入江俊次郎大隈重信の側近中の側近者だった。

森琴石ホームページ 記述ヵ所

森琴石調査情報 平成13年1月
森琴石 調査情報【平成17年2月】

森琴石 調査情報【平成17年8月】
調査情報 平成18年3月
調査情報 平成18年5月
調査情報平成19年12月
調査情報平成20年8月
家族係累  https://morikinseki.com/kinseki/keirui.htm


●福岡哲司著『深沢七郎ラプソディー』に、深沢七郎が河村学而に宛てた書簡が紹介されている。

(下方に書誌抜粋文あり)

…書物の内容から、河村学河は晩年甲府に住んでいたらしい。七郎が河村学而に宛てた書簡は、昭和23年4月だった事から、河村学而はかなり長寿だった。(明治9年時点で河村学而が20歳として、72年後の昭和23年は92歳)
…ただし、書物の内容から察するに、90歳前後でNHKのアナウンサー、というのは辻褄があわない。もしかすると{学而」名を世襲したご子息かも知れない。

…深沢七郎は河村学而を尊敬の念を抱き「河村学而仙人大兄」と呼称した。

…河村学而は仙骨を帯びた老人と思しく、森琴石の風貌に似ているかも・・・と ふと思った。

…深沢七郎の父は活版印刷を生業にし、その為七郎は早くに印刷技術を覚え、自身の詩や小説を冊子にしていたという。

●河村学而については、今後新たな資料が出次第、当頁内にて追記し、際立った情報の場合は 新たにご紹介させて頂きます。

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 森家資料

①-1 森琴石妻ゑい葬儀録(森家)
(明治9年4月10日、森琴石30歳 妻ゑい24歳)より

諸事控 表紙 (3) 5 内山他 塾 河邨 米津 メモ 住所・氏名 米津 河邨 若林 三宅 9 焼香順② 河邨 米津 吉川
              
 ⇖河邨学而=河村学而 ⇖ 
        ⇑河村学而

①-2 森雄二住所録 (森琴石長男・三井銀行勤務 30年代後半)

大隈重信        入江俊次郎(雄二の妻の父)
東京牛込早稲田 大爵隈伯  東京牛込区早稲田大隈邸 入江俊次郎          左から2人目              左から3人目

 大隈重信 住所    入江俊次郎 住所

※入江俊次郎の隣、入江貞次郎の住所は{副島侯爵邸}
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・副島種臣と思われる

書誌資料
『遊行する牧者: 辻密太郎の生涯』 – 47 ページ
   杉井六郎著/1985年9月16日/教文社刊…46頁末~47頁5行目)

明治10年(1,877)1月20日、大阪の高麗橋4丁目心斎橋筋東北角の志摩三紹介に設けられた松村(矩秋出張診察所内に 梅本町公会大阪教会から転会した前神醇一、丁野大八、その妻丁野なか、杉田潮、小泉敦、その小泉妻ぜん、西純一の7名と、 この日、宣教師レビットから洗礼をうける米津綾江(米津菱江)綱島佳吉、河村学而、俣野マスの4名を加えて、11名が教会創立メンパーとなり、澤山保羅を牧師招聘し、澤山の按手札ならびに就任式がおこなわれて設立された。 

天満教会百年史』創立100周年記念
(1979年11月11日/編集:天満教会百年史刊行委員会/発行:日本基督教団天満教会 牧師壷井正夫)

第1章 天満教会の設立以前     第5頁~6頁
1、創立使途行伝と沢山牧師の時代
      初の聖書香議会と9名の創立者
明治11年2月(1878年)初めて北区地下町6番地(現 南森町1丁目)中村ひさ方に聖書講義会を開き、毎木曜日にレビット宣教師並びに浪花公会員小泉敦、同ぜん、河村学而、同じゅん服部直一、福谷新七、同えん、中島み起、河村由幾と辻蜜太郎等が応援に来て熱心に伝道した。
同年4月天満橋北詰西の辻北入るの地、空心町1丁目(現、天満2丁目)福谷新七宅に移り、更に転じて竜田町(現、天満3丁目)の医師宅を借りたが数か月にしてまたもや福谷新七宅に戻り集会をなすよりほかはなかった。丁度その時、その近くにあった旧尼崎藩屋敷(古町名、天満11丁目、旧、天神橋筋1丁目、現、天神橋1丁目)が空き家であったので暫時借り受け講義を続け、大いに伝道に尽力されたが、暫時の約束のため再び福谷新七宅に戻り、更に天満橋筋1丁目22番地(現、天満1丁目)藤川某の家を借りるなど流転の苦しみのうちにその年が終わった。

 天満橋教会の設立

明治12112(1879)、新しい年を迎えて かねてより専任牧師の必要を痛感していたところ、小泉敦、同ぜん、河村学而、同じゅん、服部直一、福谷新七、同えん、中島み起、河村由幾の9名により「天満橋教会」を設立し、浪華公会牧師沢山保羅に兼牧を願い ここ「天満の地」に教会が誕生した。然し僅か6家庭の会員で教会を維持する事は至難なことに違いなかった。その上、家主藤川の破産夜逃げに出会って難渋し、再転して土浦某方に移り、更に僅かの間に滝川町鳥居筋南へ入る東側(現、天満4丁目)某氏宅にて集会を続けたが、その隣家に茶道師匠がいてそこへ来る天満宮の神官等がいつも伝道の妨害をなし、なお足りずに家主を脅かして家の明け渡しを迫る等、ここにも居たたまれず途方にくれ、ようやく、古町名、天満7丁目(旧町名、滝川町、現、天満4丁目)北大組第4小区小学校隣の木屋座敷を借りたが、ここも迫害にあい追われるなど、当時の状況は追想してみると言語に絶する困難を極めたであろう。それにも拘わらず、このような有様のうちに最初の兄姉の受洗者3名を与えられ、さらに驚くべき事に設立草創期の天満橋教会の状況は、「1880年度宣教師レポート」の記するところによれば、明治1117日 開校式をあげた梅花女学校のために、下表のとおり献げており、その情熱は驚くはかない。
 後文略す 


『啄木覚書 未発表書簡をめぐって
(川並秀雄著 /1981年)
204頁14行目~206頁5行目

前文略

くろがねの窓にさしたる日野影の
移るを守りけふも暮しぬ
管野須賀子については、啄木研究家の清水卯之助氏が「啄木と賢治」第十一号並びに第十三号に詳細に紹介されたが、私もふとした縁で菅野須賀子が生まれたすぐそばの大阪市北区樽屋町二〇日本基督教団天満教会で、菅野がこの教会の会員で、日曜学校の先生をしたり、週報に菅野幽月という署名で執筆していたことがわかった。この教会は明治十一年二月、小泉敦、妻ぜん、河村学而、妻じゅん、母ゆ幾、服部直一、福谷新七、妻ゑん、中島みき等の浪花公会員九名が天満地域の伝道のため迫害に耐え、明治十二年一月十二日、天満橋教会を設立したのに始まる。初代牧師は沢山保羅で、浪花教会の牧師と兼任した。沢山は明治初期における基督教教育の先覚者で自給独立の教会形成を主唱した人である。二代目の牧師は、有名な浮田和民(1859~1946)で、浮田は熊本洋学校、同志社、エール大学に学び、法学博士となって早大教授、雑誌『太陽』の主幹となって明治・大正の言論界に活躍した人である。                


『深沢七郎ラプソディ 』
61頁~63頁  第3回開高健賞奨励賞受賞作品
(福岡哲司 著/1994 /株式会社ティビーエブリタニカ)

七郎はアーティスト兼プロモーターを引き受けていた。七沢八郎は、のちに東京交響楽団のヴァイオリニストとして活躍する。ギターの演奏で付き合いのあったNHKの甲府放送局のアナウンサーで、七郎に言わせれば「おとぎの国の魔法使いのように、いずかたともなく現れくる妖しのかた」河村学而宛に、七郎はこんな手紙を書き送っている。

 毎日毎日、ヒヨコのおさんどんで、菜っ葉を切ったり、かごのお掃除で、可愛い孫の世話をしているようです。ヒヨコわ(ママ)可愛いゝな! いい黄色いおべべに黄色いくちびる! と大兄の予想通りの自由な、しずかな、その日その日をすごしています。     
この世を有難がらない小生わ(ママ)、この二三年をポカンとしているのです。でも愛する楽器を抱いて、ときどき幻想の世の中に飛んで行けるので、これだけは、皆さんにうらやましがられています。
去年、使用絃の試験の折わ(ママ)いろいろとお世話様になりました。あの時、大兄の言われた「一緒に研究しなしょう」の御言葉を得たとき、「まあ! こんなよい声をきかせてくれる人間様が甲府にも、あゝ僕の周囲にいたのかしらん?」と、不思議な響に感じました。それほど僕わ(ママ)人々共に期待しない男だったのです。でも、大兄を知ったことをこんなに喜んでいるのですから、どうか、これからお友達になって下さい。

省略

春はあけぼの、家のすぐそばわ(ママ)土手で、わたくしわ(ママ)草刈り鎌を持って、万葉を思いながら、やわらかい草を刈りつゝあさのひとときをこよなくとらえて、讃美しています。(略)(昭和23・4・10)
手紙をもらった際の河村の気持ちは聞きそこなった。末尾は「あやしのひと河村学而大兄仙人の弟子にも似たる深沢七郎」となっている。

深沢七郎
(1914-1987)山梨県石和町生れ。少年時代からギター演奏に熱中し、戦時中17回のリサイタルを開く。戦後、日劇ミュージック・ホールに出演したりしていたが、1956(昭和31)年『楢山節考』で、第1回中央公論新人賞を受賞し作家生活に入る。『東北の神武たち』『笛吹川』などを発表するが、1960年の『風流夢譚』がテロ事件を誘発し、放浪生活に。埼玉県菖蒲町でラブミー農場を営んだり、今川焼きの店を開いたりしながら『甲州子守唄』『庶民烈伝』などを創作、1979年『みちのくの人形たち』で谷崎潤一郎賞を受賞 (新潮社 深沢一郎著者プロフィール)

福岡哲司
1948年(昭和23)、甲府市生まれ。山梨大学教育学部国文科卒。県立高校教諭から山梨県立図書館長、山梨県立塩山高校長ほかを歴任。94年、『評伝 深沢七郎ラプソディ』(ティー・ビー・エス・ブリタニカ)で第3回開高健賞奨励賞を受賞。著書『本の本』(山梨ふるさと文庫)『近代山梨の光と影』(山日ブックス)など。「文芸思潮」エッセイ賞選考委員。都留文科大学非常勤講師。(はてなブログタブ より)

日本女子大学成瀬記念館
  成瀬仁蔵 没後100年記念号 史料

河邨学而の書簡
https://unv.jwu.ac.jp › narusekinenkan_2019_34
46頁目 (2月18日付記載5名のうち3番目に記述)
「日誌 成瀬家」より
1919年(大正8年)
   2月18日  お見舞いご芳名…河村学而   備考…妻マスエの叔父

河村学而の書簡は、
没後100年記念 成瀬仁蔵書簡展の資料より引用させて頂きました
(成瀬記念館には、現在成瀬の発信・受信書簡約3200点が保管されています。そのうち発信書簡は約360点で、これらの書簡は成瀬の死後、関係者や卒業生により本学に寄贈された後、成瀬記念館分館(旧成瀬仁蔵住宅)や図書館等で保管・整理され、当館開館と同時に移管されたものです

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メモ(適宜追加の予定)

沢山保羅(さわやま ぽうろ)
嘉永5年3月22日(1852年5月10日) – 明治20年(1887年)3月27日)
日本のキリスト教牧師、教育者。 「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。
日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。  (ウィキペディア)

浮田和民(うきた かずたみ)
1859‐1946(安政6‐昭和21)
政治学者。大正デモクラシー運動初期の理論的な指導者の一人。熊本県出身。
熊本洋学校,同志社卒業後,イェール大学に留学。
同志社教授を経て1898年東京専門学校(現,早稲田大学)の教授に就任。
その後1941年まで同校で教鞭をとるかたわら言論界で活躍。
ことに明治・大正期の代表的な総合雑誌《太陽》の主幹(1907‐17)として,
〈内に立憲主義,外に帝国主義(経済的帝国主義)〉の統一的な促進を力説したばかりか,吉野作造や大山郁夫らの民本主義者にも強い影響を与え,民本主義の理論的先駆者となった。(世界大百科事典 第2版)

『太陽』
博文館が、1895年(明治28年)1月から1928年(昭和3年)2月まで、計531冊発行した、日本初の総合雑誌。大正デモクラシーの世相に乗り遅れて、廃刊した。

発行人=大橋慎太郎ほか
編集長=坪谷水哉・高山樗牛・鳥谷部春汀・浮田和民・浅田江村・長谷川天渓・平林初之輔
記事は、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学・家庭などにわたり、たとえば第1巻の執筆者は、学者の依田学海・加藤弘之・久米邦武・大内青巒・神田乃武・植村正久・石川千代松・三宅雪嶺・横井時敬・天野為之・志賀重昂・坪井正五郎・大西祝・鳥居竜蔵・姉崎正治、政治家の大鳥圭介・谷干城・金子堅太郎・末松謙澄・小村寿太郎・犬養毅・尾崎行雄・牧野伸顕・近衛篤麿、実業家の渋沢栄一・加藤木重教・巌本善治、作家の福地源一郎・饗庭篁村・戸川残花(戸川安宅)・大和田建樹・坪内逍遙・落合直文・森田思軒・幸田露伴・斎藤緑雨・川上眉山・大橋乙羽・巖谷小波・高山樗牛・樋口一葉・佐佐木信綱・島崎藤村・泉鏡花・与謝野鉄幹などと、多彩だった。(ウィキペディア)

月刊太陽 第3巻17号 表紙
明治30年8月20日発行(森琴石の月施山水図が掲載)

    太陽 第3巻17号 表紙(森琴石月ヶ瀬)

左から3番目 蜂須賀文相の詠歌と森琴石の月瀬山水

前神醇一
生没年は、1844.2.21~1921.4.13。伊予国今治の沖家に生まれ、藩医前神大民の養子となり、75年大阪へ出て梅本町教会で受洗した、77年の浪花教会の設立、
11年梅花女学校(梅花学園)の創立にも関わっている、99年から1905年まで同志社の理事を務めた。  (国立国会図書館レファレンス共同ベータベースより)

森琴石晩年の風貌
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