2014年8月5日 更新
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前回
7月21日更新「森琴石:門弟の画冊に”題字の代わりに題画” 」の末尾の文章に続きます。
「絵画清談 第5巻 9月号」:森琴石記事&情報
■前回『絵画清談 第5巻9月号』には、森琴石の記事及び森琴石らの展覧会開催、門下近藤翠石の情報が記術されているとお伝えしました。
下にそれらをご紹介致します。
■「絵画清談記事」は2012年6月、国立国会図書館関西館で取得したものです。
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「絵画清談 第5巻 9月号」
概要
出版年:1917-09(大正6年9月)
出版者:絵画清談社・東京美術館
大きさ:22cm
目次
朱竹――表紙畫 / 小室翠雲
『探幽筆三幅対』 /口繪
『雪村筆風雨怒濤之圖』 / 口繪
印譜 / 結城素明
美術館建設の聲 / 一記者
繪ものがたり傳說の湖沼 / 田中阿歌麿
ミレーの美術と其の評家 / 高山林曉
東京印象記『繪双紙屋』 / 岡本綺堂
島崎柳塢君の說を駁す / 角田古栢莊
風景畫家と夜景畫家の一人者 / 小島烏水
書畫秘聞 / 鹿島櫻卷
近世畫家論『諸家の文晁論を評す』 / 梅澤和軒
玉堂自敍(其二) / 川合玉堂
國家の盛衰と美術 / 森琴石 (p29~29)
佛像と新南畫 / 橋本關雪術を奪はれし惡魔 / 北村西望
紅爐上一點の雪 / 都路華香私の見た東西アルプス / 丸山晚霞日
本畫の骨子 / 橋口五葉惠心と玉堂と大觀 / 小野竹橋
何時までも若々しい氣分で / 島成園
表具の傳 / 松平宗圓繪畫獨習 / 島崎柳塢
/京阪画壇風聞記/ 孤伯生
漢詩 / 福井學圃
彙報
關西通信會一束
關西消息
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森琴石記事
「国家の盛衰と美術」(29頁)
・附記に森琴石の病名
・・(原文の旧漢字と旧ひらがなは現代字に置き換え、行間も変更しました)
▲近頃一般に美術を愛好する人々が増加して来たのは誠に喜ばしい現実であると思う、
特に美術に対する鑑賞眼が発達し今迄は訳も分からずに美術品を蒐集していた人達が多かったが、近来は一々自己の芸術観に依って批判した上で名品を蒐集するといった真の鑑賞家が増加して来たのは、美術界のために 慶賀すべき事であらねばならぬ、
勿論、成金の族生に伴い金力に任せて訳も分からずに美術品を買い込む人達も多くなったには相違ないが、
それでも美術の鑑識眼が発達したのは争うべからざる事実として、
展覧会等での名品には懇望者の蝟集(いしゅう)するに反し、
低級な品になると何人も打ち捨てゝ 顧みぬといった実例が多々示されているのである。
▲美術の盛んになるということは、畢竟(ひっきょう)その国家の勢力が盛んなるがためであって、国家が衰微すれば、美術も随って衰退するのである、
支那の明清(みんしん)の實例を引いてもソウであって、
清朝(しんちょう)の如きは康熙(こうき)乾隆(けんりゅう)の全盛期には美術も盛んであったが
咸豊(かんぽう)に任謂長(にんいちょう)が出て以来、漸次乱れ初め清朝の覆滅(ふくめつ)と共に、今日では美術として更に見るべきものがないのである、
これは必ずしも任謂長(にんいちょう)一人のために美術が紊れた訳ではなく、任謂長の出た頃から清朝が衰運に向かった為に 美術も漸次頽れて来たのである、
日本の徳川時代でもサウであって、山陽(さんよう)や竹田(ちくでん)の輩出した文化文政頃は所謂(いわゆる)福公方(ふくくぼう)の十代家斉将軍の治世として徳川幕府の全盛期であったので
今日我美術界が盛んであるのは取りも直さず、日本の国家の隆盛期であるがために外ならぬのであって、美術の隆盛という事は大いに慶賀せねばならぬ
▲然るに世の中には美術の持て囃(はや)さるるを呪うような不心得者がいる、
たとえば先達ての入札に際して、梁楷(りょうかい)の雪中山水が二十一万円に落札したのを驚いて早くも骨董亡国なぞ唱える人達があるのである、
成程二十一万円という金は大金である、
併し国債を何億も背負うていた以前の貧乏な日本とは違う、
今日では輸出超過何億、外債でも貸付ようかという勢いに富める日本から見たならば二十一万円は大海の粟粒(ぞくりゅう)にも等しき小金である、
その粟粒位の小金塊で日本で一枚しかない名画が手に入るとすれば、実に廉(やす)いものである
更に五十万円、百万円、二百万円といった名画も続々出て来る時代が必ず近い内にあると思われる。
何れにせよ美術品に十万二十万の巨金を惜しげもなく投ずる人が出て来るのは、
つまり美術を愛好する趣味の向上を意味しているのである。
附記
琴谷翁は今春来胃腸と疝とのため臥床中であったが 昨今稍や快方に向かわれ気分すぐれし時は彩管に親しんでいる 何分七十五歳の高齢であるから切に加饗静養を祈っておく (古栢荘生)
・
森琴石ら、展覧会の情報・・・末尾(59頁目 △3番目)
関西通信(会一束)
△南宋画小品展覧会八月一九日より二四日まで大阪淀屋橋眞賀根にて開催、介堂、琴石、竹圃、金陵、雲嶺、竹荘諸氏の作品数十点
(注:山田介堂・森琴石・水田竹圃・石井金陵・赤松雲嶺・間島竹荘と思われる)
・●眞賀根=インターネットでは「若山牧水 書の世界」
・<<若山牧水年譜>に
・・・大正14年1月16~22日
・・・大阪・淀屋橋の真賀根美術展で「大阪揮毫頒布会」を開催/
・・・喜志子と共に来客の対応などで多忙を極める
・・との情報が出ています。
近藤翠石の情報・・・末尾(59頁目 関西通信の次の項、▲1番目)
関西消息
▲近藤翠石(画家)目下吹田町に画室を移し支那スケッチの浄書と文展作品揮毫中
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注釈
康熙(こうき)
清朝第4代皇帝で廟号は聖祖(中国の皇帝でただ一人の廟号)中華皇帝第一の名君として有名。治世61年も歴史上の皇帝の中では最長。1654 – 1722、享年68。
(byピクシブ百科辞典)
乾隆(けんりゅう)
1711~99 中国、清朝第6代の皇帝。在位1735~95年。名は弘暦、廟号(びょうごう)は高宗。雍正帝の第4子として生まれ、25歳で即位して以後60年間在位し、康熙・雍正帝とともに、いわゆる「康熙・乾隆時代」とよばれる清の全盛期を築いた。
咸豊(かんぽう)
清朝第9代皇帝、清朝で唯一の暴君とされる。 1831-1861享年30。
(byピクシブ百科辞典)
任謂長(にん いちょう)
●我が家の中国関係の人物資料に該当氏名は無い。
●Google book 検索では、四天王寺大学教授の呂 順長「康有儀の山本憲に宛てた書簡」の論文中に「謂長」の名が出ているようですが、確認は取れていません。
●「い」が“さんずいへん”の任渭長(任熊)という画家が存在するが、彼を指すかどうかは不明。
・任渭長=海派”と呼ばれる上海画派の代表者。清代後期の著名画家。
・任熊(1822-1857)=字は渭長、湘浦、号は不舎。浙江省蕭山の人。
・家は困窮したが、人物画を描く塾で画を学んだ。
・その後蘇州に移り、上海で画を売って暮らした。
・人物、花卉、翎毛、虫魚、走獣、すべてにおいて長けた。
・(by 横浜国際オークション 他)
■任熊は森琴石HP:「平成22年11月 森琴石旧蔵小屏風3:汪雲」で取り上げています。
■森琴石の<記事の内容>については知識が無いため感想を述べる事は出来ません。
森琴石の病名
・胃腸・疝
・「絵画清談記事」以後、更に悪化
■「絵画清談」の記事は大正6年9月である。記事では快方に向かっているとあるが、
資料:日誌2「孫加津の日誌より」
・・大正7年の日誌には病状悪化の様子が書かれている。
森琴石の病状は「絵画清談 第5巻9月号」刊行後、更に病状が進んでいた事が分かる。
■附記では胃通とあるが、加津の日誌によれば、
大正9年5月14日に発作が起こり、
翌15日の日誌には「胸を氷で冷やし続ける」状態だった。
■氷で冷やして<痛みを和らげる>とは、いったいどのような病気だったのでしょうか? 附記に書かれているような単なる「胃痛」ではなさそうだ。
■森琴石の周辺には門下「堀内謙吉」、物部誠一郎(明治45年時点:森家の主治医だった可能性あり)、緒方洪庵門の医師など名医が多数存在したが「文人森琴石」は、仮に手術を勧められたとしても身体にメスを入れるような治療は拒んだに違い有りません。
古栢荘
角田古柏莊の事。古柏莊主人とも言い、当時、名の知れた美術評論家だったようです。
絵画清談 5(11) 1917-11 雷同的批評を排す / 角田古柏莊 p28~29
絵画清談 6(4) 1918-04 硯の硏究 / 角田古柏莊p44~47
絵画清談 6(9) 1918-09院展妄評 / 角田古柏莊 p25~27 等の記事を書いている。