What’s New?  について

[森琴石]のホームページをCD化するに当り、最後のまとめにとりかかりたいと思います。

索引の充実及び画家系図のやり直しと並行し、諸情報のお知らせについては、平成23年12月より[What's New?]からご覧頂きたいと思います。

 [森琴石]の調査を開始してから13年経ちましたが、その過程に於けるさまざまなエピソードや苦労話などを、記録として残す必要があるとのご意見を頂戴しています。
調査情報ではお伝え出来なかった内輪的な事にも少々触れてみたいと思います。

ブログ形式の操作に不慣れな為、画像やイラストの挿入などがまだ出来ません。
徐々に覚えていきますので気長にお付き合い下さい。       2011年12月5日  筆者

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大阪大学総合学術博物館「モダン中之島コレクション」…森琴石の「難波橋渡り初め式図」下絵が展示

2022年4月28日 更新

 

大阪大学総合学術博物館第16回特別展
「モダン中之島コレクション」
森琴石の下絵・・・「難波橋渡り初め式図」が 展示

 

画の依頼者=竹原友三郎
・・・・・大阪 竹原財閥の初代

・・・・・・・・・・関西財閥の超大物
・・・・・・・・・・(相場界の元老)

 

 

 ・  / 会場入り口        難波橋コーナー

・・展覧会 会場 入口             展覧会 森琴石コーナー 斜め撮り
  

      ・・・森琴石:画稿 3点、記念はがき
                                                         ・
展覧会 森琴石コーナー 森琴石部分

  ・・・・・・・・・(画像ご提供=波瀬山 祥子氏)



下の内容は 大阪大学総合学術博物館 HP より転載させて頂きました
第16回特別展「モダン中之島コレクション  “大大阪”時代の文化芸術発信センター」 – 大阪大学総合学術博物館 (osaka-u.ac.jp)

 

第16回特別展「モダン中之島コレクション

“大大阪”時代の文化芸術発信センター」

 

大阪大学総合学術博物館第16回特別展
   モダン中之島コレクション
      “大大阪”時代の文化芸術発信センター

 

 

大阪中之島は、江戸時代に蔵屋敷が並んだ「天下の台所」を象徴する土地であり、近代に入ると大正7年(1918)に大阪市中央公会堂(重要文化財)、同10年に華麗なステンドグラスが嵌め込まれた大阪市庁舎が完成し、金融機関、新聞社、図書館、ホール、ホテルが集積したシビックセンター (Civic Center) として発展しました。昭和37年(1962)には具体美術協会の美術館「グタイピナコテカ」が開館、昭和45年(1970)の大阪万博で「具体」メンバーはアートパフォーマンスも行っています。現代も中之島は、パブリックアートが集積し、都市全体を美術館に見立てた“エコ・ミュージアム”として機能しています。

そして、2022年の大阪中之島美術館の開館は世界的にもユニークな“美術館島”として、この地域をさらに新しい文化ゾーンへと変貌させようとしており、大阪大学も大阪大学中之島センターを改修し美学、美術史、演劇学、音楽学、文芸学など芸術系の拠点として「大阪大学中之島芸術センター(仮称)」の2023年の開設を目指しています。

 こうした動きを眺めつつ、当館では、大正14年(1925)の第2次市域拡張で東京市を抜いて日本最大、世界第六位となった“大大阪”時代を中心に、中之島が文化芸術に果した役割を、文化施設関係のパンフレットや絵画、写真、地図、刊行物など、日常生活や社会に氾濫した“イマジュリィ”(イメージ図像)を中心に再検証します。

展覧会概要

会  期:2022年4月28日(木)~7月30日(土)
会  場:大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館 ※入館無料
開館時間:10時30分~16時30分(入館は16時まで)

      日曜日・祝日休館

  ただし 5月2日・5月3日は 特別開館 されます

主  催:大阪大学総合学術博物館
共  催:大阪大学大学院人文学研究科、大阪大学大学院工学研究科
協  力:大阪市中央公会堂、大阪歴史博物館、大阪くらしの今昔館
      株式会社竹中工務店、株式会社ロイヤルホテル
      大阪大学医学部医学史料展示室
後  援: 関西経済同友会

 

  チラシPDF をご覧ください

 

展示構成
第1章 大阪中之島大パノラマ ー江戸・明治・大正から「大大阪」へー
第2章 シビックセンター遊覧 ーモダン・ライフと都市施設ー
第3章 深化する“アートアイランド” ー新しい文化芸術の発信拠点ー

主な展示品
・初代長谷川貞信「浪花百景」より「たこの松」紙本多色摺 大阪大学総合学術博物館蔵
・「大阪市パノラマ地図」印刷 1923年 個人蔵
・『会館芸術』V0l.2,No.4 朝日会館発行 1933年 個人蔵
・武田五一「大阪市公会堂新築設計図 透視図」原画 紙本・インク・1921年 大阪市蔵
森琴石「難波橋渡り初め式図(下絵)」 紙本・墨画 1915年 個人蔵
・安井曾太郎「薔薇」油彩・カンヴァス 1934年 株式会社ロイヤルホテル蔵
・「旧大阪市庁舎楣(まぐさ)・ステンドグラス(扇形)」1921年 大阪くらしの今昔館蔵

 

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この度の展覧会で、大阪大学総合学術博物館の先生方には大変お世話になりました

橋爪節也氏(教授)・・・ご所蔵コレクションが多数展示されています
辻野博文氏(准教授)・・・薬学科の研究者、准教授
波瀬山祥子氏(研究支援推進員)・・・チラシも担当されました

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森琴石の
難波橋渡り初め式図

 

下絵
(40.0×124.2cm)

●渡り初め式 下絵

 竹原友三郎、とく子夫妻 (各39.5×27.2cm)

翁男 翁女

記念ハガキ (14.0×9.1cm)

大正四年五月廾弐日
竹原夫妻 記念はがき
新難波橋渡初式 尉と姥  竹原友三郎翁 仝夫人とく子

 

備考
竹原友三郎について

★大阪竹原財閥の初代
★関西財閥の超大物

『財界物故傑物伝下巻』より  資料=国立国会図書館 次世デジタルライブラリ―

実業之世界社編輯局編実業之世界社 1936

竹原友三郎(82頁)
竹原友三郞(北濱株式街の成功者)
盛衰浮沈の多い北濱株式街にあつて、明治十一年大阪株式取引所開設以來、克くその一生を相塲道に終始し、幾多の波瀾を凌いで遂に巨萬の富を獲た成功者の一人に竹原友三郞がある。

 ●彼は彼は大阪の入竹原源七の二男として嘉永二年六月十一日に生れた。幼少の頃から商才に長けてゐた彼は實業界に立つて成功せんことを夢み、十二三歲の折大阪心齋橋筋の鼈甲店に雇はれ追廻しの丁稚として走り使ひや店掃除を陰日向なく勤めた。その後暫くして平野町四丁目の兩替店炭屋萬兵衛方に奉公することになり、彼はこゝでも勤勉に店務に從事して拔群の成績を擧げ、主人萬兵衛の厚い信任を得ることになつた。
明治十一年彼の三十歲の折主人の後援を得て獨立し兩替店を開いた。彼の堅實經營と客筋への懇切を極めた奉仕は、日に月に一般の信用を得て店は次第に繁忙を加へて行つた。

 彼が獨立して兩替商を始めた明治十一年には、大阪に於て五代友厚、鴻池善右衛門、住友吉左衛門、山口吉郞兵衛、井口新三郞、平瀨龜之助、加納治郞右衛門、笠野熊吉、熊谷辰太郞等が發起人となつて株式取引所創立に奔走し、同年七月大藏省より許可を得て開塲をすることになつた。
 開塲當時の營業は殆ど公債の賣買であつて、株式の賣買と金銀貨の賣買が開始されたのは、十二年一月からであつた。而もその株式賣買も每日行はれるのではなく、每「六」の日に限つて立會をするのみで、定期取引もたゞ當月限だけの賣買であつた。
 尤も株式會社の數も未だ極めて少かつたから株式とは何であるかを理解してゐる人も甚だ尠かつた。從つて市塲の人氣は價格變動の激しい金銀貨、公債に集中して、株式は殆ど顧みる者もなかつたのである。
 而も彼の店は大阪株式取引所開設以來益々繁忙を加へ、十五年一月に仲買人(現在の一般取引員)營業を許可されるに及び、本格的に業務の擴張發展を圖ることになつた。
 又その前後から諸株式は每日立會となり取引の履行期限も當中先の三限賣買制となり、大株、東株、橫濱取引所株、硫酸製造會社株、橫濱正金銀行株その他船舶株鐵道株、紡績株が上塲され、株式の商內高も漸次多數に上つて行つた。
 その後彼は定期に現物に何處でも自己の營業に忠實に、孜々として精勵したが、明治二十七年日清の戰機漸く熟し、戰費充實の呼聲に連れて財界の前途は樂悲兩論に別れ、株界の人氣も闇雲低迷の形であつたが、彼は國家と共にその運命を賭して諸株を買捲り巨利を收めた。
 爾來彼の行くところ可ならざるはなき有樣であつたが、三十七八年の日露戰爭には更に買進み、戰後の好況時代には野村、高木、黑川の三商店と共に大阪現物團を組織し、株式社債等の引受けをなして金融界證劵界に多大なる貢献をなすと同時に巨萬の富を積むに至つた。
 歐洲大戰頃には竹原商店は大阪取引所一流の信用ある店として益々その聲名を謳はれるに至つた。
彼は株式仲買業專門で、それ以外如何なる事業にも關與しなかつた。趣味も株式賣買業以外には、殆どいふべきものがなかつた。
株屋であるに拘らず、綠酒紅燈の味はひも知らず、生涯人力車にも乘らなかつた。然し决して吝嗇の人ではなく公益事業に私財を投じたことは一再ではなかつた。
彼の生涯はまことに努力、勤儉、篤行の人であつたと言へやう。大正七年九月十八日、病を獲て逝去した。享年七十。

×當主友三郞氏は大阪府人竹原久吉の甥にして明治二十四年四月四日を以て生れた。同三十九年先代友三郞の養子となり、大正七年家督を相續し、前名義一を改めて友三郞を襲名した。
氏は先代の事業を繼承してその聲名と信用を維持し、更にこれを進展せしめてゐる。
現時、竹原合名會社代表社員、竹原商店社長、城南土地會社取締役岸和田紡績會社監査役を歷任してゐる。夫人秀女は明治二十七年四月生れ、故寺田甚與茂の二女である。


Web情報

証券(大正6年)▷大阪株式現物団(野村商店・高木商店・竹原商店・黒川商店) | ジャパンアーカイブズ – Japan Archives (jaa2100.org)

●日経新聞記事 2012年3月3日 

大局観に立つ竹原財閥の番頭 竹原荘治郎氏: 日本経済新聞 (nikkei.com)

2代目 竹原友三郎(初代友三郎の甥)
神戸大学電子図書館システム –一次情報表示– (kobe-u.ac.jp)
出典=神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 土地(7-168) 大阪時事新報 1931.2.4 (昭和6)

書誌資料

●『大阪商人太平記』(宮本又次著・創元社・S36年9月)

・・・・・・・  竹原友三郎記述 ⇓    右の浜崎永三郎は 森家の身内

浜崎永三郎、竹原友三郎 大阪商人太平記 s36年9月 宮本又司

『家庭円満安全貯金法』 内、広告記事
・・(安全貯金研究会編・雲泉堂書店・1917年)画像=国立国会図書館次世代ライブラリー

竹原 広告

 

森琴石HP
難波橋渡り初め(なにわばし わたりぞめ)

新聞記事  ※記事は展示されていません

大正4年5月22日に行われた「難波橋渡り初め儀式」、翌日の新聞記事 より … 難波橋渡初めの當日である二十二日、大吉日の午前十時四十分、ワーッと揚げる喚声が群集の ..

『いちょう並木 4月号』 :表紙に森琴石の下絵(一部) | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)

 

 書誌掲載

橋爪節也の 大阪百景

『橋爪節也の大阪百景』 創元社 2020年

第五四景 
大大阪の誇りを今に伝えるライオン橋物語 ――難波橋 森琴石 天岡均一 与謝蕪村「春風馬堤曲」

第六五景 
大阪人は南画が好きだったはずが…… ――浪華画学校 森琴石 富岡鉄斎 与謝蕪村

 

その他 

100年前の関西の建築 1915年 その1 難波橋 : 光の射すほうへ (exblog.jp)

 

 

 

・・・・

 

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森琴石「独楽園図 」明治17年作=爽やかな作品…京都国立近代美術館 企画展 後期展示

2022年4月8日 更新

 

京都国立近代美術館

  サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇

 

森琴石
 明治17年作「独楽園図」・・・後期に展示

 

展覧会の概要

2022年3月23日(水)-5月8日(日)
前期:3月23日(水)-4月17日(日) 
後期:4月19日(火)-5月8日(日)

  休館日 月曜日
  ※ただし5月2日(月)は開館
  観覧料一般:1,200円(1,000円)
  大学生:500円(400円)

京都国立近代美術館 主催:京都国立近代美術館、朝日新聞社
 特別協力:大阪歴史博物館
協賛:関西大学アジア・オープン・リサーチセンター(KU-ORCAS)、一般財団法人 きょうと視覚文化振興財団

★詳細は 下の記アドレスでご覧ください
https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2022/446.html

 

 

森琴石「独楽園図」…Part3   後期に展示
 西宮K氏コレクション 蔵

独楽園図 とは

⓵『画題辞典』より
(斎藤隆三著、博文館発行、大正14年7月) 
資料ご提供=熊田司氏

『画題辞典』解説

くらくえん(独楽園)
・・独楽園は宋の司馬光が相を罷めて後、洛に居りて営みたる別業なり、
・・自らその祀を作る、左の如し
・・・・・・独楽園記
        以下文章 省略します
・・画かるる所多し。

北宋時代の政治家・司馬光(1019~86)の「独楽園記」より、
都会の喧騒を離れた庭園でのどかな生活を楽しむ司馬光を描いた作品。
静嘉堂文庫美術館|展示作品の紹介 (seikado.or.jp)

 森琴石の「独楽園図」
旧家で ”戴文進”の 作品を鑑賞後 「森琴石風」に描いた?


●「独楽園図」は、多くの画家が好んで描いた画題で、日本では”川端玉章”の作品が著名だそうです。
●「独楽園図」をネット検索したところ、某オークションサイトで、戴文進の「独楽園図」の巻物(32 x 323 cm)が、税込90万超えの落札情報が出てきました。
●戴文進を調べたところ、戴文進の山水図が、山口県の萩市の旧家に所蔵されている事が分かりました。
●憶測にすぎませんが、森琴石は、萩市の旧家で戴文進の「独楽園図」を鑑賞した可能性があります。
●明治17年森琴石は 山陰地方などを遊歴し、尚また中国文人を此の地の名家旧家に紹介していた。
●森琴石は、中国文人の画法で描いた場合 賛や落款に「倣・・・」や「・・・筆意」と記す。展示中の作品の落款は「甲申夏日写琴石写於読画楼南窓下」とある。
●4月20日、後期展示第2日目、やっと暇が出来美術館に行くことが出来ました。
片道3時間弱かかった甲斐がありました。森琴石にしては大作でも力作でもありませんが、さわやかな良い作品でした。

メモ
手元に 姓が同じ「戴明説」及び「戴蔓公(独立禅師)」の資料があります。
    ・・・・最後尾に資料と画像

 

森琴石作品 展示個所

Par t 3 町人たちのアートワールド̶大阪画壇の可能性  

作品リスト
サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇作品リスト (momak.go.jp)

NO 171    森琴石
タイトル  獨樂園図 

年号    明治17年 ( 1884)
体裁    軸・一幅/絹本著色
寸法    129.1×50.3
所蔵者   西宮K氏コレクション 

 

●西宮K氏コレクション とは

◊熊田司氏所蔵のコレクション名
◊熊田司氏は
美術史家、前和歌山県立近代美術館館長
講座・講義・講演、執筆など幅広く活動されておられます。
◊国立国会図書館サーチでは、多数の 記事・論文・書誌情報が出て参ります。
(但し、74件の内6件は 同姓同名の化学者です)
簡易検索結果|「熊田司」に一致する資料: 74件中1から15件目|国立国会図書館サーチ (ndl.go.jp)

 

●K氏コレクションから、岡田半江の作品も展示されています

No 128
岡田半江
夏景山水図(前期・後期)
天保7年 1836
軸・一幅/紙本著色
130.8×60.9

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

備考

戴文進・戴明説・戴蔓公(独立禅師)について


戴文進 (たいぶんしん)
中国の明時代の画家である。
明の画院に登用されようとしたが、讒言のために妨げられて故郷の浙江省(せっこうしょう)に帰り盛んに作家活動を行った。
いわゆる浙派の始祖となった。南宋画院の画風をいっそう烈しく強くした筆致で、山水・神像・走獣花果などを書き。ことに山水を描いては明時代第一との定評がある
(公益財団法人財団菊谷家住宅保存会)より

●戴文進の作品は、山口県萩市の菊屋家住宅に所蔵されています。
戴文進筆「春冬山水図」(中国・明時代) 国指定重要文化財|書画|菊屋家住宅 所蔵品のご紹介|国指定重要文化財菊屋家住宅 (kikuyake.com)

◊山口県の情報=前回の情報をご覧ください。
 (下に記述しているが 戴蔓公(独立禅師)は山口県岩国にも足跡を残している)

門人名簿「末永頼太郎」=牧師、俳人、起業家、福祉に尽力…多彩な経歴 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)

 

戴明説
生没年は明らかになっていませんが、明時代に活躍した書家です。河北省の出身で、号は定圃や巌犖と称していました。1634年には科挙試験に及第し兵科給仕中の位に就きましたが、当時農民反乱の指導者として活躍していた李自成によって北京が陥落すると、戴明説はこれに従い、敗れると帰郷したと言われています。しかし1644年には官職に復帰し、その後昇格を繰り返しましたが、約17年勤めあげたのち、弾劾され職を辞しました。戴明説は詩文を好み、また絵においては山水画や墨竹画を得意としていましたが、最も多く作品に残しているのは、竹石図です。戴明説(たいめいせつ) | 古美術・骨董の高価買取は【Gallery翠】 (gallery-sui.com)

 

戴蔓公=独立禅師
著書に『戴蔓公先生 種痘治術伝』
[明戴蔓公先生]痘瘡治術伝 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ (kyoto-u.ac.jp)

江戸時代初め1664年に初めて岩国に医師として招聘された独立禅師は「日本篆刻の祖」と言われている
名医として岩国に4回招聘され、日本に篆刻を伝えたと言われる
「独立禅師が伝えた ハンコと篆刻印」~190827-MI ジャーナル (canpan.info)

 

画像資料

戴明説  書 の 箱書き=森琴石
   (但し、画像web画像 保存分)

       戴明說 書   森琴石箱書 戴明說 

 

森琴石自筆控帳
長崎に来た著名中国文人 及び 長崎の著名文人の伝記
長崎の書画人名(明治中期当時)を列記
(六頁分)


伝記人名
独立(どくりゅう)・隠元・木庵・即非・朱舜水

 沈南蘋・熊代熊斐(くましろゆうひ)・方濟園・三浦梧門・木下逸雲

長崎書画人
書之部 9名 後日記す
画之部 10名 後日記す

 

伝記 最初の頁               蔓公=独立 右端 一行目載鶴公 控帳 中国人伝記

 

 

 

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門人名簿「末永頼太郎」=牧師、俳人、起業家、福祉に尽力…多彩な経歴

2022年3月21日 更新

 

森琴石 門人名簿に名がある

末永頼太郎…について


★画家・牧師・俳人・企業人、資産家、福祉に尽力、多彩な人脈と経歴

★山口県は
 森琴石の交流者が多く、且つ足跡が多い(今後の調査課題)

●長三州=森琴石が尊敬した人物
   ・・ 森琴石の画室名<聴香読画蘆>の名づけ親

●高島北海
・・   ”正派同志会” の発起人(森琴石は評議員)
    ”南画同志会” メンバー
・・・・備考
・・・・南画同志会=
福岡県小倉市大阪町のち米町に移る)代表は間部霞山(萬里)
・・・・・・間部萬里(間部霞山)=南画同志会広島支部代表
・・・・・・森琴石 調査情報【平成20年 2月】 (morikinseki.com) 【2】注3)

  ・・・・
海関先生詠物詩集” 橋本徳著/間部萬里校正/印刷佐伯卓造(大正7年)
・・・・・・・橋本徳=橋本海関 (序文、識に情報)

●防府天満宮との関り・・・・・伊藤石僊(森琴石門下)

王治本の、下関での画業の成功は、森琴石の貢献による

 

高島北海
1850(嘉永3)年、萩藩医の子として萩で生まれ、絵を独学で学びました。明治維新後、新政府の工部省に入り、兵庫県の生野鉱山に赴任すると、外国人からフランス語や地質学、植物学などを学び、日本初の地質図となった山口県の地質図を作ります。その後、内務省や農商務省に移り、日本各地の地質や山林を調べました。やがてフランスのナンシー森林高等学校に留学し、植物学を学びます。そこで、後に美術運動「アールヌーヴォー」の担い手の一人となるエミール・ガレらナンシーの美術家たちと交流し、多くの日本画を制作しました。40代後半から画業に専念し、50代で上京すると日本画壇の重鎮として活躍しました。
晩年、自身が名付けた山口市・萩市の長門峡や、長門市の青海島、下関市豊田町の石柱渓などの景勝地の紹介や、その遊歩道の建設、自然保護にも力を尽くし、満80歳で亡くなりました。
(山口県の先人たち=公益財団法人 山口県ひとづくり財団)

 

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森琴石門人名簿

森琴石控帳より

明治30年11月
日本美術協会提出 門人名簿 下書き         右から2番目
              山口県長門国赤間関市 末永頼太郎 

明治30年1月 名簿下書き 吸波

・・・森琴石HP 門人紹介では
号名を ”吸江” と記述しているが、”吸波”の間違いだったようです
・・・

 

牧師 
出典=国立国会図書館次世代デジタルライブラリ―

『日本基督教会年鑑 大正7年』日本基督教会大会事務局 ・1926年刊)
各教会役員牧師伝道師  無印=牧師 〇教師 △伝道者 ●中会未入者

(五)山陽中会教会之部(115頁)
  豊浦
   末永頼太郎 同町(山口県豊浦郡長府町)土肥山
             末永頼太郎=豊浦2段目  
・・・・・・・・・・・・・・・   
 

豊浦 末永の部分(115P) 大7

 

俳人

長府図書館輯録
『長府の学者画家俳人略伝』 資料叢書  昭和53年刊

長府の学者画家俳人略伝 S53

俳人の部 (第26頁目に掲載)

〇吸波
味月庵、末永頼太郎
〇梅既に月を吐くべき景色あり
    ・・

長府の学者画家俳人略伝 吸波 俳句(26頁)

 

 

起業家

『西西部瓦斯株式会社史 』(1982年・135 頁)

明治 44 年 9 月 2 日付
『防長新聞』記事
「豊浦郡長府町末永頼太郎氏は、今回同町へ瓦斯事業を創設せんとて目下技手をして調査せしめつつあるが、資本金は約参万円の予定なり」

・・・・・・その他多数ありますが、省略します

 

福祉に尽力

中嶌 洋、 菊池 義昭氏論文より
1900 年と 1901 年の岡山孤児院の賛助員の 全国的な支援ネットワークシステムの構築の実態 … 160010410203nakashima_kikuchi-chukyo-u (3).pdf

中嶌洋 著 · 2021 — その他、 4 月 17 日には、 末永頼太郎が家族 3 人と釘光を同伴して来院して 2 円を寄付し、 釘光は 1 月に賛助金 7 円 90 銭を集金し取次いでいた。

王治本の下関での画業

『中国, 社会と文化 – 第 24 号』 2009 ·
・・陳 捷 氏の論文 172頁目
『1870~80年代における中国書画家の日本歴遊』より

森琴石は更に王治本一昨年、大阪で毎日奔走したが、いささかも収穫がなかったのに、昨年、自分とともに地方に行き、今も下関に行っているが収益は非常に大きいと述べているのである。

(注:森琴石と中国文人との筆談内容)

 

 

 

森琴石と山口県
 森琴石HP記述ヵ所

 

森琴石調査情報【平成20年 7月】
その後、山口県赤間関分店(現下関市 M19/7)に行き、明治21年に本採用された。以来、大阪茨木(M25)・広島(M31頃)・小樽(M40)・東京から大阪西支店(M45)へと転勤を …

 

森琴石調査情報【平成12年】
山口県下関市の長岡完治氏から、明治20年に赤間関(現下関市)で描かれた「山水図」の所蔵のご連絡を頂く。琴石は赤間関には度々訪れていたと伝えられている。

 

森琴石調査情報【平成22年 7月】
【3】栗田石癖伝

…森琴石が亡くなった半年後(1921年)、「栗田石癖」が下関を訪問した際、長府の覚苑寺で開催された“がまん会“には、森琴石門下の「末永頼太郎」が出席していた。

 

 森琴石調査情報【平成13年】
森琴石は、木戸孝允と深い関係にある長三洲(豊後日田生まれの漢詩家・明治の三大書家の一人)と親交していた。明治8年に、森琴石の画室名「聴香読画廬」の由来となっ …

 

森琴石「響泉堂」関係人物紹介
儒学 -順序は門下別とする-: 廣瀬淡窓(ひろせ たんそう) =広瀬淡窓: 廣瀬旭荘(ひろせ きょくそう)=広瀬旭荘: 長三洲(ちょう さんしゅう): 光吉文龍(み …

 

森琴石調査情報【平成23年 4月】
当ホームページでは「長三洲」や「福原周峰」らと交流があり、赤間関での足跡が多いなど、山口県との関わりが深い森琴石であるが、日本最古の天満宮※として …

 

森琴石調査情報【平成20年 4月】
「鼎金城」の師匠「廣瀬旭荘」が綴った「日間瑣事備忘」や、廣瀬旭壮が口述し、「長三洲」が筆記した「九桂草堂随筆」などからは師匠「鼎金城」や兄弟子「行徳玉江」の …

 

森琴石調査情報【平成19年 7月】
廣瀬旭荘から最も信頼され、晩年の旭荘を支え続けた「長三洲」は長州の出身で、日田「咸宜園」の門生となり、萩の明倫館で講学もした。「長三洲」と共に「木戸孝允」の …

 

森琴石調査情報【平成22年 5月】
広瀬旭荘に師事し、詩文に長じた。幕末の動乱期は旭荘の影響を受けて勤皇派に与し(くみし)国事に奔走した。長三洲とも深く親交する。明治に入り、大阪若松町に開塾し …

 

らんだむ書籍館
.. 文人画家としては、東京の安田老山と京都の中西耕石を頂点とし、東京の奥原晴湖、福島柳圃、長三洲、京都の田能村直入、谷口靄山、豊後の平野五岳などがあった。

 

森琴石調査情報【平成22年 1月】
楊守敬が題纂を冠し、三条実朝(序)・日下部東作(書)・長三洲の書にかかる川田甕江の序文・伊藤博文(題辞)・巌谷一六の筆にて中村敬宇の後序、跋文に岡本黄石・ …

 

森琴石調査情報【平成19年 12月】
・・・号を<小洲 ※>と云い、書を長三洲から学んだ。 ☆花卉・園芸を趣味とし、邸内に「百樹園」と名付けた花卉園を設け、多数の花卉と共に外来種の新種を栽培していた事で …

 

森琴石調査情報【平成20年 2月】
… 米華(長三洲門下・森琴石の日誌に名あり=門人:大阪市北区 鎌田梅石(四))・ … 小室翠雲=南画正統派を自任する南画家で結成された<正派同志会>の副委員長 …

 

 

 

 

 

 

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