What’s New?  について

[森琴石]のホームページをCD化するに当り、最後のまとめにとりかかりたいと思います。

索引の充実及び画家系図のやり直しと並行し、諸情報のお知らせについては、平成23年12月より[What's New?]からご覧頂きたいと思います。

 [森琴石]の調査を開始してから13年経ちましたが、その過程に於けるさまざまなエピソードや苦労話などを、記録として残す必要があるとのご意見を頂戴しています。
調査情報ではお伝え出来なかった内輪的な事にも少々触れてみたいと思います。

ブログ形式の操作に不慣れな為、画像やイラストの挿入などがまだ出来ません。
徐々に覚えていきますので気長にお付き合い下さい。       2011年12月5日  筆者

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日英博覧会(明治43年)、森琴石の作品がヨーロッパで激賞…『大正人名辞典』

2020年9月2日 更新

 

日英博覧会(明治43年)
森琴石 出品作品【松林山水図】がヨーロッパで激賞
         英国雑誌「スタヂオ」に画が掲載
         ⇓
       『大正大正人名辞典』に記述

■大阪府吹田市の大塚融氏より、森琴石伝記資料を送信して頂きました。

■「日英博覧会で、森琴石が出品した作品が賞賛された…という 伝記がありました!」と、ご連絡を頂き、森琴石が記載されている部分の画像をお送り頂きました。

■大塚融氏からは『浪花摘英』の全冊コピーをご送付頂くなど、森琴石調査の初期から多大なご協力を頂いています。

※大塚融氏
昭和39年一橋大学経済学部卒、NHK東京報道局に記者として入局。昭和49年大阪局報道部にて関西経済界全般を担当。平成7年「NHK大阪放送局70年史」、平成17年「NHK大阪放送局80年史年表」編纂・執筆。平成12年10月~17年3月神戸大学文学部非常勤講師。平成15年「大和証券百年史」編纂・執筆。
   (www.suzukishoten-museum.com/blog/post-301.php

大塚融氏は、<蘭の木版画>で著名な{加賀正太郎}の後輩(一橋大学)でもあり、加賀正太郎の木版画のコレクターとしても知られています。

京都 芸艸堂(うんそうどう)サイト
キュー植物園と当館で「蘭花譜」展示 | 大阪の植物園-咲くやこの花館- (sakuyakonohana.jp)

■2019年10月、イギリスの王立キュー植物園で{蘭花譜」の展示会が開催され、大塚融氏のコレクションも展示されました。

キューブックスでは<全作品のランの写真入りの分厚い書籍>を出版しました。

※加賀正太郎1888―1954
実家は大阪船場の商家「富商加賀商店」で江戸時代から両替商を営んでおり、明治に入ると証券業にも参入していた。東京高等商業(現在の一橋大)で学ぶと、22歳の時にヨーロッパに遊学。 ロンドンの日英博覧会を見学すると、アルプスのユングフラウ(標高4158m)には、日本人で初めて登頂している。日本近代登山の先達の一人である。イギリスでは英国王立の植物園であるキュー・ガーデンでなどで蘭栽培を見学し、園芸にも深い関心を持つようになった

1936年(昭和11)紺綬(こんじゅ)褒章受章。日本山岳会名誉会員。
著書に『蘭花譜(らんかふ)』がある。
―ウィキペディ & コトバンク―

▼森琴石の門下「山名友石」は、『珍花図譜』(明治38年・芸艸堂)を、鮮やかな色彩と大胆な構図で蘭などを描いている。  ※珍花図譜…京都京都山崎書店 珍花図譜/Chinka Zufu / 美術書山崎書店

■森琴石が、明治43年”日英博覧会”に出品した「松林山水図」の所在は不明です。
もしかすると 展覧会後、日本や欧州のどなたかに購入して頂いた可能性もあります。

日英博覧会の資料に ~森琴石自筆控帳~
明治43年3月10日付
「日英博覧会・押川則吉・スチュージオ」等の文字を記した頁があります。

※押川則吉
  1863年2月7日(文久2年12月19日) - 1918年(大正7年)2月18日)は、日本の農務・内務官僚、
  政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。幼名・千代太郎。 

  薩摩藩士・押川乙五郎の長男として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。
・・1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。
・・1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。

  1888年5月から1891年9月まで、仏国巴里府万国大博覧会事務官補などとしてヨーロッパに駐在した
・・帰国後、1892年3月に農商務技師となる。

  1895年5月、陸軍省雇員・大本営付として台湾に赴任。同月、台湾総督府が設置され、民政局殖産部
  務課長心得に就任。さらに、兼参事官心得、民政局殖産部長を歴任した。
・・・・・・以下略 byウィキペディア 

■what’s New でも 日英博覧会について 記述しています。
森琴石の作品所蔵者:塚本 靖 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)

 

 

資料

『大正人名辞典』 画像
資料ご提供者=大塚融氏(元NHK経済記者・数寄者研究家・経営史研究家)

森琴石「響泉堂」 森琴石紹介 Mori Kinseki | ―南画編― 大正時代 
              【3】大正人名辞典をご覧ください

大正人名辞典 大塚氏 より大正3年10月第1版発行

下方に活字にしたものがあります。

 

 

 

 

 

 

松林山水図


ドイツ【ハイデルベルク大学 データベース】 で画像が閲覧できます
是非ご覧ください
・・・・
 https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/studio1910b/0142

※ハイデンベルク大学
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルクにある総合大学。
1386年創立でドイツ最古の大学。通称はハイデルベルク大学。
                ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク – Wikipedia

 

 


コピー画像(森琴石孫、故飯田知子氏より)

イギリス スタヂオ誌 森琴石「松林山水」

 

②日英博覧会資料・・・成立の概説

日英博覧会
        

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『大正大正人名辞典』
  附日本帝国之富力 商工業発達史
  東洋新報社蔵版

森 琴石君 
        △出生地 大阪府
                           △現住所 大阪 北 北野高垣 12434
                           △生年月 天保14年3月19日
画家
大阪の南画界に於いて最も人格の高逸にして人に接するに謙遜、自から持すること頗る謹厳、而も名に奔らず利に赴かず、古希の齢を以て尚入神の技を研き、芸林の為に献身的努力を為しつゝある人物を索むれば、何人も琴石翁森君其人を推すに踟蹰せざるべし、

 翁は梶木源次郎氏の家に生まれ、襁褓にして森善作氏の子となり其姓を冒す、夙に絵画を好み且天賦の才あり、嘉永3年8月初めて大阪の画家鼎金城の門に入りて画法を学び、文久元年6月金城没後、忍頂寺青村に師事して南宗派の描法を修得し、元治2年3月浪華の大儒妻鹿友樵、高木退蔵諸碩に就き漢籍及び詩文を学べり、

明治6年3月   
東京の洋画家高橋由一に師事して洋画を習得し、以て東西画法の長短を究め、爾来筆を載せて東西を漫遊し 全国の名山大江を跋渉して自然に接触し、同時に各地の名家を叩いて其技を練り、更に道を問うこと多年、而して寸暇を得れば即ち古人の遺書に眼を曝して其範を採り自己芸術の向上に資せしを以て、其技愈々円熟するに至りて、遂に大家の班に入れり、是に於いて乎画名端なく丹青界を壓するを見る、

明治16年全国絵画品評会を発企し、学画会、點晴会,扶桑絵画教会、日本南画会等を設立して斯道の発展に力を盡し、翌17年秋全国絵画品評会を大阪に開き、23年樋口三郎兵衛氏と共に浪華画学校を設立して教鞭を執り美術界の為に努力し、又後進養成に意を用うる等、翁の功績実に顕著なるものあり、

 同年9月宮内省より御用画の命を拝し、同28年日清戦役の当時 先帝陛下大纛を広島に前めらるゝや、翁は2幅の山水画を揮毫して献上し御嘉納あらせらる、以て絶代の名誉と謂うべし、35年5月 今上天皇の儲宮にて座せし当時、御慶事奉祝画を献納して是亦御嘉納を受け、翌年内閣勲章局より功により銀杯下付の光栄に浴す

43年大英国倫敦府に開催せられたる日英大博覧会には『松林山林』の大作を出品して欧州人の激賞を博し、以て有名なる英国の美術雑誌「スタジオ」に讃辞を掲げられたり、

 是より先 日本美術協会第1部委員、其他 東京、京都、名古屋、大阪等に開催せっれたる各種の博覧会、展覧会等に顧問、審査委員等の嘱託を受けたること10数回の多きに達し、又作品の宮廷御用品となること数次、而して毎博覧会、展覧会に出品して金銀銅牌、銀盃、木盃を授与されしは枚挙に遑あらず、

尚著書には南画独学、題画詩林、墨場必携等あり、書名既に内外に振い、真に我国美術界の耆宿を以て重ぜらるゝもの故なきあらず、

 大正2年8月復た第7回文展審査委員に挙げられるたるは、大阪画家としては翁を以て嚆矢とす、今や幾多の公私画会の顧問、委員、又は評議員として斯界に貢献しつゝあるは、真に仰欽するに餘りあり、

 ※一部の旧漢字は当用漢字に改め、漢数字は一アラビア数字に置き換え、字間・行間など変更しています

 

 

 

 

 

 

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森琴石塾生「米津菱江」=画家、教材製作、宣教師として活躍

2021年7月10日  更新

 

塾生「河村学而・米津菱江」=明治初期 大阪のキリスト教会創設メンバーだった | 森琴石 What’s New (morikinseki.com) につづきます

 

米津菱江(号方舟)

画家・・・・森琴石同門(忍頂寺静香村)
教材製作・・教科書・地図・地球儀
宣教師・・・浪花公会(教会・明治10年大阪)創設者のひとり
・・・・・・新宮教会創設時の宣教師
・・・・・・      ☝米津方舟の名で布教活動
・・・・米津方舟の名で布教活動

米津菱江は日根対山、忍頂寺静村(梅谷)、岡田九茄と、3人の師匠に画を学んだ。
米津菱江と森琴石は、忍頂寺静村の同じ門下生となる。

米津菱江は、明治9年4月10日、森琴石妻{ゑい」死亡時の記録
<諸事控帳:焼香順 塾> に河村学而と共に筆頭に名ガ記されている。 塾 河村 米津

河村学而・米津菱江は明治10年、大阪の浪花公会の創立メンバーで、同志は全て敬虔なクリスチャンで、後年著名学校の創設者、校長や教師などとして身を奉じた人物が多い。信者同士の婚姻も多い。

米津菱江は、明治8年12月『日本地誌畧暗射地圖』を手始めに、10点ばかり
地図、地誌略などの書誌を著編し、明治10年4月には木製の地球儀も製作した。

森琴石の地球儀は、明治7年11月に官許、翌8年3月に刻成した。
米津菱江は森琴石に少し遅れて教材作りに励んだようだ。

■森琴石は既に明治7年には、書誌出版の準備をしていたと思われる。

■地図や地誌類の出版は、江戸時代からの流れらしいが、米津菱江は 維新後の日本の子供たちに、廃藩置県後の日本や 広い世界を知って欲しいとの思いが地誌類などを最初に手掛けたと思われる。あるいは聖書の刊行にも着手していたかも知れない。

明治13年3月『紉斎画賸』の編者を最後に米津菱江の書誌は見当たらない。
ネットでの情報では、明治22年刊の『古今名家新撰書画一覧(東文研データベース 18893C 不判優劣』があります。

■画では某オークションサイトでの明治22年和歌浦で描いた「山水図」があり、現在高値で取引された「山水宴図」なる中国風の細密画がネットに出ています。
残念ながら文字画像が小さすぎ製作年が読めません。

■米津菱江は、クリスチャンとしての布教活動を熱心にしたらしく、明治16年、米津菱江は新宮の大石余平の招聘で、伝道師として浪花教会から新宮に派遣された。

※大石 余平(おおいし よへい)  1854年 – 1891年10月28日
は、長老教会の長老である。 文化学院創立者・西村伊作の実父。幸徳事件で処刑された大石誠之助の兄。教育者・石田アヤの祖父。建築家・坂倉竹之助の曾祖父。​ ウィキペディアより

大石与平、大石誠之助に関する資料は下方をご覧ください。

■米津菱江は引き続き注目してます参ります。

 

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料資

米津菱江 略伝
「内国絵画共進会出品人略譜」より
米津菱江

方舟ト號ス、大坂府東區大手通壱丁目ニ住ス 安房ノ人近藤彦四郎ノ男ニシテ 米津清一郎(號奚疑?)ノ養子トナル 日根對山 沙門静村(號梅谷) 岡田九茄等ニ畫法ヲ學ヒ 畿内ヲ歴遊シ叉東海東山ノ諸國ヲ通過スル毎ニ必勝區ヲ胸臆ニ畳ム
  ~森琴石HP~
    ※米津方舟の伝記はこれが一番詳しい。安房=千葉では無く、徳島県と思われる

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東文研データベース
古今名家改正南画一覧  1881(明治14) 3D 不判優劣
古今名家新撰書画一覧  1889(明治22) 3C 不判優劣

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浪花公会創設メンバー
  時期:明治10年1月
  メンバー:前神醇一、丁野大八、その妻なか、杉田潮、小泉敦、その妻ぜん
・・・・・・・  西純一、米津綾江、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの11名
・・・ 牧師:沢山保羅

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米津菱江、大石与平の資料

資料①
『遊行する牧者: 辻密太郎の生涯』 - 47 ページ

杉井六郎著/1985年9月16日/教文社刊…46頁末~47頁5行目)

明治10年(1,877)1月20日、大阪の高麗橋4丁目心斎橋筋東北角の志摩三紹介に設けられた松村(矩秋出張診察所内に 梅本町公会大阪教会から転会した前神醇一、丁野大八、その妻丁野なか、杉田潮、小泉敦、その小泉妻ぜん、西純一の7名と、 この日、宣教師レビットから洗礼をうける米津綾江、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの4名を加えて、11名が教会創立メンパーとなり澤山保羅を牧師招聘し、澤山の按手札ならびに就任式がおこなわれて設立された。 

 

資料②
祿亭大石誠之助』より
(森永英三郎著、岩波書店、1977年10月)

 7頁末~8頁

兄大石余平

誠之助の長兄余平は安政元(1854)年四月十六日に生まれた。前出『我に益あり』で、西村は父余平について、漢学を学び、儒教思想を体得していたが、英語を学んだり、新時代の知識の吸収にも熱心であって、朝から晩まで読書をしていた。一方では日本画を学び、謡曲も習っていたと書いている余平が受けた教養は儒教であったが、英語を学んだことでもわかるように、外来のものにも関心を持っていた。余平も、権威や伝統や世俗に拘泥しない大石一族の血を受けていたので、たやすく外来のものを受けいれることができ、また後述するように、何のためらいもなく、キリスト教に帰依することができたのであろう。
              略
余平は明治十年西村冬と結婚した。冬は安政四(1857)年十一月二日生まれであった。冬の実家西村家は、熊野川の上流である北山川に沿った奈良県吉野郡下北山村上桑原にあって、山持の富豪であり、冬の母もんが支配していた。余平と冬の間に伊作(イサク)、真子(マルコ)、七分(ステイブン)の三人の男の子が生まれた。どれも聖書からえた名前である。うち伊作は西村家をついで西村伊作となり、東京で文化学院を創設したことによって広くしられている。子も七分も、ともにアメリカに学んだ。帰国後の七分は画家となり、心情的アナキストとなったといわれ、大逆事件後の大正七年七月、大杉栄の世話を受けて雑誌『民衆の芸術』を発行したりした。

前出『新宮市誌』(昭和十三年刊)によると、余平は明治十三年十一月、睦世を伴って大阪に出て、親族にあたる木ノ本出身の医師喜田玄卓に睦世の教育のことを託した喜田はキリスト教信者になっていたので、睦世をキリスト教主義の梅花女学校に入学させた。余平は漢訳馬可伝を読んでから喜田に伝道師の派遣を頼んだ。そこで派遣されてきたのが浪花教会員米津方舟山本周作(修作)であるというのである。米津は画家でもあり、余平の家の襖絵を描いたともいう。


webサイト 新宮キリスト教会の活動 (urikomail.jp)

… 1883(明治16)年7月、浪花教会会員で文人画家の米津方舟(よねずほうしゅう)と、聖書販売でやってきた山本周作とが、馬町の寄席でキリスト教演説会を開いた。これが新宮でのキリスト教伝道集会の初め。翌年の6月には、大石余平らの努力で、キリスト教会堂を建立。


webサイト
大石余平(おおいしよへい)の活躍 (urikomail.jp) より
大石誠之助の兄大石余平(1854-1891)とキリスト教との出合いは、余平の生涯を決定づけた。橋渡しをしたのは、妹の睦世(むつよ)。1882(明治15)年睦世は浪花教会牧師沢山保羅(さわやまぽうら)から受洗、翌年兄に漢訳馬可伝(かんやくまかでん)を贈った。まもなく、余平も受洗。新宮教会の献堂にも尽力した。妻冬の実家西村家は大山林家。長男伊作が西村家を相続したが、余平のキリスト教への帰依が西村家との確執を生む。余平は「光塩社」という会社を作って材木売り捌きを業としながら、宣教師ヘールに付き従って紀伊半島でのキリスト教伝道に汗水を垂らす。余平は明治22年の大洪水の際には獅子奮迅の働きをする。被災直後、新宮の地を離れて、岐阜県伏見町での亜炭発掘に関与。その後、名古屋のミッションスクール・名古屋英和学校の宗教・語学の教師になっているが、その2ケ月後濃尾大震災によって、妻冬とともに圧死している。 名古屋英和学校HPより

 

米津菱江 著書類  国立国会図書館サーチ他(抜けている場合があります)

①『日本地誌畧暗射地圖』

・・・米津菱江製図/明治8年12月・梅原亀七出版 (飜刻)・
・・地図 3枚=色刷 68×90-114×141cm(折りたたみ25cm
②「小学読本字引」
・・・米津菱江編・明治9年4月・梅原亀七・54丁13×18cm
③『大日本暗射地圖』
・・米津菱江製図/明治9年7月・梅原亀七・地図 1枚=色刷
・・・145×143cm (折りたたみ24cm)
④『日本地誌略訳図』
… 米津菱江製図/明治9年5月・浪華書肆 梅原亀七出版)

 日本地誌略訳図 – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) をご覧ください

奥付の住所(明治9年5月 刻成)        森琴石妻ゑい葬儀時記録
第一大区十七小区淡路町三丁目住           明治9年4月10日の住所=淡路町三九橋筋東入
右と左は、同じ住所と思われる

 米津 地誌略訳図奥付 明治9年5月刻成(4月20日お届)           住所・氏名 米津 若林 
⑤『改正 日本地誌略訳図』
・・文部省編纂・米津菱江製図・明治9年5月・浪華書肆 梅原亀七出版・響泉堂刻
⑥『木製 小型地球儀』
  明治10年4月出版
  製図人・米津菱江
  出版人・佐渡島伊兵衛
  木箱:15cm x 9.3cm x9.8cm

  ※佐渡嶋伊兵衛
  明治9年(1876)大阪船場に銅・鉄地金商<佐渡島伊兵衛商店>を創業

⑦『小學用萬國地圖 萬國地誌略譯圖』
  米津菱江編・明治10年2月・梅原亀七・地図 1冊 ; 18cm
⑧『改正日本地誌畧暗射地圖』
  米津菱江編・明治10年9月・梅原亀七・地図 4枚=色刷
   72×97-149×109cm (折りたたみ25cm)
⑨『紉斎画賸 じんさいがじょう
  陳允升(清)著・米津菱江編・明治13年3月・赤志忠雅堂(大阪)
  4冊(天・地・玄・黄) 20㎝
    注:光諸3 陳允升氏得古歡堂刊の翻刻
    ※陳允升(ちん いんしょう)=1820~1884 字吉甫,字仲升,号纫斋,浙江鄞县人

 

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参考資料

 

明治8年 森琴石及び響泉堂書誌
 ①の『小型地球儀』以外は
『森琴石作品集』資料 熊田 司編 響泉堂所鐫銅版書目(219頁)のデータを使用させて頂きました

①『小型地球儀』         木箱、大きさ比較 -
  明治7年11月官許
同 8年3月刻成
森琴石校正併蔵版
岡田茂兵衛発兌    

 

②『朝鮮国全図』沢井満輝 著述
  明治8年(1875)・森本太助
  銅版刷彩 一鋪 47.3cm×69.8cm  
  右下に「大阪 響泉堂銅製」  

 

 ③藤井新助 縮図・校正『地球新図(地球全図)』
  明治8年・藤井新助 蔵
  銅版刷彩 一鋪 46cm×61cm
  右下に「森琴石刻」 【参照=香川大学附属図書館】

 

 ④永田方正 訳『暗射地球訳図』
  明治8年(新鐫)・大阪書林岡田 蔵
  銅版刷彩 一鋪 71.5cm×92.5cm
  左下に「大阪 響泉堂銅製」

 

 

 

 

 

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森琴石塾生「河村学而」=成瀬仁蔵の妻の叔父

2021年6月13日 更新

前回
塾生「河村学而・米津菱江」=明治初期 大阪のキリスト教会創設メンバーだった | 森琴石 What’s New (morikinseki.com) の続き

 

河村学而は

●森琴石 明治9年4月時点{塾生}の一人

●明治初期 大阪のキリスト教会の創立メンバーだった。

 浪花公会
  時期:明治10年1月
  メンバー:前神醇一、丁野大八、その妻なか、杉田潮、小泉敦、その妻ぜん
・・・・・・・  西純一、
米津綾江、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの11名
・・・牧師:沢山保羅

 天満教会
  時期:明治11年2月
  メンバー:小泉敦、妻ぜん、河村学而、妻じゅん、母ゆ幾、服部直一
       福谷新七、妻ゑん、中島みき等の浪花公会員9名
・・・・牧師:沢山保羅

服部直
新島襄と親しくした。 神戸や大阪に伝道活動後、明治14年に北海道浦河西舎に入植、そこが後に農林省の種馬牧場に召される。農業の傍ら聖書の販売をしていた。
妹の満寿枝は成瀬仁蔵と結婚、弟の服部他之助は浪花教会の会員で、新島襄と親交。アメリカ留学の後に同志社に入学、卒業後学習院初等科の教師となる。
柳宗悦は学習院時代、師の服部他之助を尊敬し、キリスト教の信者になったという。
※ご子孫のブログに詳細記述あり ➡我が家のルーツの話 : ねこや食堂日記 (exblog.jp)

小泉敦、沢山保羅=田島藍水の3人の娘と縁あり
姫路藩儒者田島藍水の長姉ぜんは 大阪の梅花女学校校主小泉敦と結婚、次姉多可は同校校長沢山保羅とそれぞれ結婚、長姉ぜんが八〇年に病死した後、小泉敦は3女の佳志と再婚
(『川口恐竜地の研究』ほか』

●成瀬仁蔵没後100年記念 成瀬仁蔵書簡展史料に”河村学而”の書簡が存在

…書簡の備考に、河村学而は<服部満寿枝の叔父>と書かれている。(下方に出典資料)

…成瀬仁蔵は日本女子大学を創設した人物で、妻の服部満寿枝は、天満教会創立メンバーの「服部直一」の妹である事が判明。

…成瀬仁蔵は20歳の時、所属していた大阪・浪花教会の組合教会らの運動で設立された「梅花女学校」の生徒だった服部マスエ(満寿枝)と明治12年に結婚した。
…服部満寿枝は、NHK朝ドラマ{
朝が来た}の鳴沢カナの実在モデルらしい。

…成瀬仁蔵が日本女子大学を創設する際、大隈重信は設立委員長を務めた。
我が家の祖母梅子の父、入江俊次郎大隈重信の側近中の側近者だった。

森琴石ホームページ 記述ヵ所

森琴石調査情報 平成13年1月
森琴石 調査情報【平成17年2月】

森琴石 調査情報【平成17年8月】
調査情報 平成18年3月
調査情報 平成18年5月
調査情報平成19年12月
調査情報平成20年8月
家族係累  https://morikinseki.com/kinseki/keirui.htm


●福岡哲司著『深沢七郎ラプソディー』に、深沢七郎が河村学而に宛てた書簡が紹介されている。

(下方に書誌抜粋文あり)

…書物の内容から、河村学河は晩年甲府に住んでいたらしい。七郎が河村学而に宛てた書簡は、昭和23年4月だった事から、河村学而はかなり長寿だった。(明治9年時点で河村学而が20歳として、72年後の昭和23年は92歳)
…ただし、書物の内容から察するに、90歳前後でNHKのアナウンサー、というのは辻褄があわない。もしかすると{学而」名を世襲したご子息かも知れない。

…深沢七郎は河村学而を尊敬の念を抱き「河村学而仙人大兄」と呼称した。

…河村学而は仙骨を帯びた老人と思しく、森琴石の風貌に似ているかも・・・と ふと思った。

…深沢七郎の父は活版印刷を生業にし、その為七郎は早くに印刷技術を覚え、自身の詩や小説を冊子にしていたという。

●河村学而については、今後新たな資料が出次第、当頁内にて追記し、際立った情報の場合は 新たにご紹介させて頂きます。

 

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 森家資料

①-1 森琴石妻ゑい葬儀録(森家)
(明治9年4月10日、森琴石30歳 妻ゑい24歳)より

諸事控 表紙 (3) 5 内山他 塾 河邨 米津 メモ 住所・氏名 米津 河邨 若林 三宅 9 焼香順② 河邨 米津 吉川
              
 ⇖河邨学而=河村学而 ⇖ 
        ⇑河村学而

①-2 森雄二住所録 (森琴石長男・三井銀行勤務 30年代後半)

 

大隈重信        入江俊次郎(雄二の妻の父)
東京牛込早稲田 大爵隈伯  東京牛込区早稲田大隈邸 入江俊次郎          左から2人目              左から3人目

 大隈重信 住所    入江俊次郎 住所

※入江俊次郎の隣、入江貞次郎の住所は{副島侯爵邸}
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・副島種臣と思われる

書誌資料
『遊行する牧者: 辻密太郎の生涯』 - 47 ページ
   杉井六郎著/1985年9月16日/教文社刊…46頁末~47頁5行目)

明治10年(1,877)1月20日、大阪の高麗橋4丁目心斎橋筋東北角の志摩三紹介に設けられた松村(矩秋出張診察所内に 梅本町公会大阪教会から転会した前神醇一、丁野大八、その妻丁野なか、杉田潮、小泉敦、その小泉妻ぜん、西純一の7名と、 この日、宣教師レビットから洗礼をうける米津綾江、綱島佳吉、河村学而、俣野マスの4名を加えて、11名が教会創立メンパーとなり、澤山保羅を牧師招聘し、澤山の按手札ならびに就任式がおこなわれて設立された。 

 

天満教会百年史』創立100周年記念
(1979年11月11日/編集:天満教会百年史刊行委員会/発行:日本基督教団天満教会 牧師壷井正夫)

第1章 天満教会の設立以前     第5頁~6頁
1、創立使途行伝と沢山牧師の時代
      初の聖書香議会と9名の創立者
明治11年2月(1878年)初めて北区地下町6番地(現 南森町1丁目)中村ひさ方に聖書講義会を開き、毎木曜日にレビット宣教師並びに浪花公会員小泉敦、同ぜん、河村学而、同じゅん服部直一、福谷新七、同えん、中島み起、河村由幾と辻蜜太郎等が応援に来て熱心に伝道した。
同年4月天満橋北詰西の辻北入るの地、空心町1丁目(現、天満2丁目)福谷新七宅に移り、更に転じて竜田町(現、天満3丁目)の医師宅を借りたが数か月にしてまたもや福谷新七宅に戻り集会をなすよりほかはなかった。丁度その時、その近くにあった旧尼崎藩屋敷(古町名、天満11丁目、旧、天神橋筋1丁目、現、天神橋1丁目)が空き家であったので暫時借り受け講義を続け、大いに伝道に尽力されたが、暫時の約束のため再び福谷新七宅に戻り、更に天満橋筋1丁目22番地(現、天満1丁目)藤川某の家を借りるなど流転の苦しみのうちにその年が終わった。

 天満橋教会の設立

明治12112(1879)、新しい年を迎えて かねてより専任牧師の必要を痛感していたところ、小泉敦、同ぜん、河村学而、同じゅん、服部直一、福谷新七、同えん、中島み起、河村由幾の9名により「天満橋教会」を設立し、浪華公会牧師沢山保羅に兼牧を願い ここ「天満の地」に教会が誕生した。然し僅か6家庭の会員で教会を維持する事は至難なことに違いなかった。その上、家主藤川の破産夜逃げに出会って難渋し、再転して土浦某方に移り、更に僅かの間に滝川町鳥居筋南へ入る東側(現、天満4丁目)某氏宅にて集会を続けたが、その隣家に茶道師匠がいてそこへ来る天満宮の神官等がいつも伝道の妨害をなし、なお足りずに家主を脅かして家の明け渡しを迫る等、ここにも居たたまれず途方にくれ、ようやく、古町名、天満7丁目(旧町名、滝川町、現、天満4丁目)北大組第4小区小学校隣の木屋座敷を借りたが、ここも迫害にあい追われるなど、当時の状況は追想してみると言語に絶する困難を極めたであろう。それにも拘わらず、このような有様のうちに最初の兄姉の受洗者3名を与えられ、さらに驚くべき事に設立草創期の天満橋教会の状況は、「1880年度宣教師レポート」の記するところによれば、明治1117日 開校式をあげた梅花女学校のために、下表のとおり献げており、その情熱は驚くはかない。
後文略 


『啄木覚書 未発表書簡をめぐって
(川並秀雄著 /1981年)
204頁14行目~206頁5行目

前文略

くろがねの窓にさしたる日野影の
移るを守りけふも暮しぬ
管野須賀子については、啄木研究家の清水卯之助氏が「啄木と賢治」第十一号並びに第十三号に詳細に紹介されたが、私もふとした縁で菅野須賀子が生まれたすぐそばの大阪市北区樽屋町二〇日本基督教団天満教会で、菅野がこの教会の会員で、日曜学校の先生をしたり、週報に菅野幽月という署名で執筆していたことがわかった。この教会は明治十一年二月、小泉敦、妻ぜん、河村学而、妻じゅん、母ゆ幾、服部直一、福谷新七、妻ゑん、中島みき等の浪花公会員九名が天満地域の伝道のため迫害に耐え、明治十二年一月十二日、天満橋教会を設立したのに始まる。初代牧師は沢山保羅で、浪花教会の牧師と兼任した。沢山は明治初期における基督教教育の先覚者で自給独立の教会形成を主唱した人である。二代目の牧師は、有名な浮田和民(1859~1946)で、浮田は熊本洋学校、同志社、エール大学に学び、法学博士となって早大教授、雑誌『太陽』の主幹となって明治・大正の言論界に活躍した人である。                


『深沢七郎ラプソディ 』
61頁~63頁  第3回開高健賞奨励賞受賞作品
(福岡哲司 著/1994 /株式会社ティビーエブリタニカ)

七郎はアーティスト兼プロモーターを引き受けていた。七沢八郎は、のちに東京交響楽団のヴァイオリニストとして活躍する。ギターの演奏で付き合いのあったNHKの甲府放送局のアナウンサーで、七郎に言わせれば「おとぎの国の魔法使いのように、いずかたともなく現れくる妖しのかた」河村学而宛に、七郎はこんな手紙を書き送っている。

 毎日毎日、ヒヨコのおさんどんで、菜っ葉を切ったり、かごのお掃除で、可愛い孫の世話をしているようです。ヒヨコわ(ママ)可愛いゝな! いい黄色いおべべに黄色いくちびる! と大兄の予想通りの自由な、しずかな、その日その日をすごしています。     
この世を有難がらない小生わ(ママ)、この二三年をポカンとしているのです。でも愛する楽器を抱いて、ときどき幻想の世の中に飛んで行けるので、これだけは、皆さんにうらやましがられています。
去年、使用絃の試験の折わ(ママ)いろいろとお世話様になりました。あの時、大兄の言われた「一緒に研究しなしょう」の御言葉を得たとき、「まあ! こんなよい声をきかせてくれる人間様が甲府にも、あゝ僕の周囲にいたのかしらん?」と、不思議な響に感じました。それほど僕わ(ママ)人々共に期待しない男だったのです。でも、大兄を知ったことをこんなに喜んでいるのですから、どうか、これからお友達になって下さい。

省略

春はあけぼの、家のすぐそばわ(ママ)土手で、わたくしわ(ママ)草刈り鎌を持って、万葉を思いながら、やわらかい草を刈りつゝあさのひとときをこよなくとらえて、讃美しています。(略)(昭和23・4・10)
手紙をもらった際の河村の気持ちは聞きそこなった。末尾は「あやしのひと河村学而大兄仙人の弟子にも似たる深沢七郎」となっている。

深沢七郎
(1914-1987)山梨県石和町生れ。少年時代からギター演奏に熱中し、戦時中17回のリサイタルを開く。戦後、日劇ミュージック・ホールに出演したりしていたが、1956(昭和31)年『楢山節考』で、第1回中央公論新人賞を受賞し作家生活に入る。『東北の神武たち』『笛吹川』などを発表するが、1960年の『風流夢譚』がテロ事件を誘発し、放浪生活に。埼玉県菖蒲町でラブミー農場を営んだり、今川焼きの店を開いたりしながら『甲州子守唄』『庶民烈伝』などを創作、1979年『みちのくの人形たち』で谷崎潤一郎賞を受賞 (新潮社 深沢一郎著者プロフィール)

 

福岡哲司
1948年(昭和23)、甲府市生まれ。山梨大学教育学部国文科卒。県立高校教諭から山梨県立図書館長、山梨県立塩山高校長ほかを歴任。94年、『評伝 深沢七郎ラプソディ』(ティー・ビー・エス・ブリタニカ)で第3回開高健賞奨励賞を受賞。著書『本の本』(山梨ふるさと文庫)『近代山梨の光と影』(山日ブックス)など。「文芸思潮」エッセイ賞選考委員。都留文科大学非常勤講師。(はてなブログタブ より)

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