森琴石実兄「梶木源之助」、東京向島に有馬温泉を開設していた

2012年10月20日

森琴石HP 
 森琴石紹介:生家「梶木源之助」の補足です

森琴石実兄「梶木源之助」
  
明治17年より東京向島に“有馬温泉”を開設していた

インターネットで得た情報
去年(2011年)の初め頃より、森琴石実兄が「向島で有馬温泉を開設していた」という情報はインターネットの情報で知っていました。当面の課題が山積し、「向島有馬温泉」には中々着手する事が出来ませんでしたが、この度ようやくホームページにご紹介する事が出来ました。

サイト情報
そら飛ぶ庭【地の庭】古書道楽「珍・本・版」val.9 のサイト
      「新撰・東京名所図絵」の「隅田堤」(上・中・下)の下巻には
     「この下巻には、他に「向島有馬温泉之図」(秋葉神社境内千有余坪の地に兵庫県の有馬 
  温泉の湯花を入れた温泉場があった由)と書かれ、の<隅田堤 上中下>は、明治31  
  年に発行された『風俗画報』の別冊との説明があった。

墨田区の観光案内のサイトから
     【はなしのなどころ:墨田区
  有馬温泉
  「今よりも敷地の広かった秋葉神社境内にあった料理屋.有馬の湯の花を入れた人工温泉を 
  売りにしていた.地図にも向島5-38に有馬湯とあり,最近まで銭湯として営業していた.
   
銭湯跡のマンションSpring Yard入口に銘板が埋め込まれている」とあり、「向嶋有馬温泉縁起銘 
   板」、右端には小さな画像の「向島有馬温泉之図」が添付されている。

 ●有馬海潮音 のサイトでは、向島有馬温泉以外に、森琴石の実父梶木源次郎(源治郎)について調べられた事を記述されておられます。梶木源次郎は今年没後100年という事をこのサイトで知りました。


東京向島有馬温泉について知りたい
 元になる資料は『新撰 東京名所図会』
上の情報を得たことから、秋葉神社境内にあった有馬温泉の事がどのようなものであったか? どうしても知りたくなりました。同時に元になる資料は『新撰 東京名所図会』の「隅田堤 下巻」という事も分かりました。

 

先ずは問い合わせ
◍秋葉神社
 有馬温泉が存在した事はご存知でしたが、それ以上の事はご存知無いとの事で、もう少し詳しく知る方がおられるとして「飛木(とびき)稲荷 神社」の宮司様を紹介して下さいました。
◍飛木稲荷神社
『新撰東京名所図会 隅田堤』は、近年復刻版が刊行されたので、そこに詳しく書いてありますよ」と教えて下さいました。
◍墨田区役所
念の為と思い墨田区役所にも問い合わせ致しました。
どの課かは忘れましたが、飛木神社から教えて頂いたことを告げますと「復刻版は現在はもう無くなりました。恐らく入手は無理でしょう。古書店又は蔵書している図書館を調べられたら良いと思います。実物は見られなくてもマイクロフィルムで閲覧出来る図書館があるはずです」と、
具体的な事を親切に教えて頂きました。

 

『新撰 東京名所図会 第十四編』を求めて
古書検索で古書が無いか、又国立国会図書館のサーチ検索で蔵書している図書館を調べたところ、元になる資料は『新撰 東京名所図会 第十四編』である事が分かりました。しかし同書は古書店にもなく、阪神間の公共図書館では該当の蔵書が無く、資料を閲覧する事が出来ない事が分かりました。

 

 
東 雅夫氏の著書・・・貴重、豊富な情報
更なる情報を求め、インターネットでキーワード「東京 向島 有馬温泉」で調べたところ、
<東雅夫の幻妖ブックブログ>
【今日の一冊/57】江戸東京 怪談文学散歩 というブログが出て参りました。  

 検索画面に出た内容は次のものでした
  今から百年近く前の1908年7月、鏡花たちが「化物会」を催した向島有馬温泉の旧蹟を求めて、   
  
この界隈を徘徊するうち、近年まで銭湯として営業していたという有馬温泉の跡地にたまたま 遇、    
  興奮の面もちで鼻息も荒く、近くの古老や商店・・・

泉鏡花? 化物会?
著者の「東 雅夫」先生が書かれた文章と見受けました。
「えつ!! 泉鏡花? 化物会?」と、2つの単語に胸が高鳴り興奮を覚えました。
もっと詳しく知りたいと、興味はどんどん深まってきました。
その後は 最近資料の検索の為必ずやる事“Google ブック検索”を試み情報を集めました。

 

Google ブック検索・・・多数の情報
Googleブック検索では、かなり多くの情報が検索画面に出、一部を除きPDFでも閲覧出来たのです。Google ブック検索で表示されたものから3件下に示します。

向島有馬温泉の情報
角川学芸出版, 2008 – 238 ページ
 
1…本家有馬温泉から湯花を移して創業したとある。十一月、寺島町に隣接する請
  地町の向島秋葉神社の境内千余坪を開いて建造した温泉宿泊施設の経営者だった
  梶木源之助(大阪で活躍した画家-森琴石の実兄)が、明治十七年二八八四)「隅田堤之
  部.…
 
・・・「料理」の項には「普通一式の料理、花中又弁当を調進す」とあり、「美人なし」と銘打たれトを  
  髮髴させるような行楽地だった には、明治東京地誌の基本文献として著名な『新撰東京名所図
  会」第十四編 向島有馬温泉とは、いかなる施設だったのか?

怪談会の事
 江戸、東京には、怪談や怪奇小説の舞台となった場所が、両国、深川、新宿など、随所にある―。怪 
 談研究のエキスパート東雅夫が、東京の街を徘徊探訪し、芥川龍之介、永井荷風、岡本綺堂、三遊 
 亭円朝から、宮部みゆきまで、古今の名作怪談にゆかりのスポットと不思議な伝承を案内する…

PDF江戸東京怪談文学散歩 – 51 ページ – Google ブック検索結果 角川学芸出版

 

東 雅夫著『江戸東京怪談文学散歩』を入手
 
第三章泉「鏡花ほか『怪談会』と向島有馬温泉(墨田区)」の見出しで、30頁にわたり記述されている。当時の新聞記事や化物会及び参会者の逸話、今は無き旧跡を辿るドキュメンタリーな内容は、惹きつけられるように読み進める書物です。

『江戸東京文学散歩』(角川選書428)の紹介文(裏表紙)
  江戸、東京には、怪談や怪奇小説の舞台となった場所が、両国、深川、新宿など、随所にあ  る  
  ―。怪談研究のエキスパート東雅夫が、東京の街を徘徊探訪し、芥川龍之介、永井荷風、岡本綺 
  堂、三遊亭円朝から、宮部みゆきまで、古今の名作怪談にゆかりのスポットと不思議な伝承を案内
  する・・・・・恐ろしくも興味尽きない江戸東京案内。
 
とあります。

本文中に東 雅夫編 『文豪怪談傑作選 特別編 鏡花百物語集』、東 雅夫編 『文豪怪談傑作選 特別編 百物語怪談会』が紹介されていましたので、参考の為これらも入手しました。

 

明治31年刊『新撰 東京名所図会』
    やはり原本の全文が知りたい
         最後の<頼みの綱>は熊田司先生

東雅夫著『江戸東京怪談文学散歩』には、『新撰 東京名所図会 墨田堤下巻』の「向島有馬温泉」での原文は、一部を紹介されているのみである。
やはり全文が知りたいと思いましたが、
 古書も入手出来ない、図書館閲覧も無理・・・・・
という事で、やはり“明治期の書誌及び版画類の一大コレクター”の熊田司先生にお訊ねするしか方法が無いと思いました。
「東京のものなのでコレクションには無いだろうなあ!」と思いつつ、思い切って問い合わせをしましたところ、翌日には「ありますよ!」と、画像も送信して下さいました。9月初めの頃でした。

さすが熊田先生
     嗚呼 嬉しき哉、有難き哉!!

 

有馬温泉、閉鎖時期について
 ”明治41年7月11日夜向島の有馬温泉で「化物会」開催され、
 その時の怪談会の様子を書物に纏めたものが、
 翌年の明治42年10月に
柏舎楼から『怪談会』が出版され、
 明治41年の「化物会」は怪談史上に名を留めた”
とするので、明治42年迄は確実に経営されていたようだ。

有馬温泉グランドホテルの梶木雅夫社長にもお訪ねしましたが、
「こちらもいろいろ調べてみましたが 分からないです」とのお返事でした。

 

 有馬温泉”開設時の大恩人「守田寳丹」について
 
―森琴石が紹介した可能性あり―
決め手となる根拠は薄いが、森琴石は宝丹と同じような藥の広告「延齢水」の商標や効能書き等を銅版で制作している事。森琴石の周辺にはボードウィンに学んだ「堀内利国(平成23年5月 ■後ろから②番目に記述)」や存在や、花月新誌を創刊した成島柳北の交流者の存在がある等、森琴石が守田宝丹を紹介した可能性は充分ある。もしかすると 銅版で「守田宝丹」の広告印刷を手がけた可能性があるかも知れない。

 

下に「守田宝丹」に関する3つのサイトより守田宝丹の伝記をご紹介します

守田寶丹
「宝丹寶丹)の製造元である株式会社守田治兵衛商店の創業者・初代守田治兵衛は、摂津国(現大阪府)より、延宝8年(1680年)に江戸へ出て、薬舗を開き「貞松堂」と号した。爾来、血統連綿として13代現社長守田敬太郎に至り、江戸最古の薬舗として平成の現代へと引き継がれている。」とあり、「オランダ人医学者A・F・ボードウィン博士の処方からヒントを得た」ともある。

美術人名辞典(思文閣美) より
守田宝丹

幕末・明治の実業家。江戸生。名は祐孝、通称治兵衛。代々の薬舗に生れ、十九で家業を継ぐ。商品名でもある「宝丹」を号とし、家業の一方で書画をまなぶ。はじめ、書は江馬東丘を師とし画は狩野派につくも、のち、ともに門下をはなれ独流をつらぬく。古銭の収集・鑑定家としてもしられ、同好の成島柳北と交流があった。東京府会議員、市会議員などの公職もつとめた。大正元年(1912)歿、72歳。

 誠之館人物誌 より 
守田治兵衛
 
守田治兵衛(9代目)は、諱を祐孝(すけたか)、隠居後は静松園・長禄翁と号した。また守田宝丹とも自称している。つまり宝丹というのは、治兵衛の別号であり、また上野池之端仲町の「守田寶丹」という薬舗の屋号であり、また扱っていた商品名でもあった。

 

 

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