5月19日 更新
泉屋博古館
「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ ―住友コレクションの近代日本画」に、森琴石の作品「山水図」が展示
・・ 明治30年(1897) 絹本着色・軸 171.2×87.5㎝
・西洋画法も取り込んだ人工楽園のような風景画・・・と紹介
企画展の概要
「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ
―住友コレクションの近代日本画」
開催期間
2018年5月26日(土)~7月8日(日)
時間
午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場
住友コレクション 泉屋博古館
・・・・・京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24
料金
一般800円、高・大学生600円、中学生350円(小学生以下無料) ※20名以上は団体割引20%、障害者手帳ご提示の方は無料
※企画展・青銅器館両方ご覧いただけます
休館日
月曜日
お問い合わせ
泉屋博古館 電話:075-771-6411
ホームページ http://www.sen-oku.or.jp/
主催、後援など
主催:公益財団法人 泉屋博古館、京都新聞後援:京都市、京都市教育委員会、京都市内博物館施設連絡協議会、公益社団法人京都市観光協会
主な展示品
菊池容斎・森琴石・富岡鉄斎・竹内栖鳳・山田秋坪・上島鳳山・東山魁夷・山口逢春・小林古途など
関連イベント(※入館料が必要です)
■ギャラリートーク
5/26(土)14:00~ ナビゲーター:野地耕一郎(泉屋博古館分館長)
■ゲストトーク
6/9(土)14:30~ ゲスト:大野俊明(日本画家・京都市立芸術大学特任教授)
6/30(土)14:30~ ゲスト:竹内浩一(日本画家)
連載記事
(泉屋博古館ホームページの内容を転載させて頂きました。
・・野地耕一郎館長による画家の筆ぐせ紹介は随時追加させて頂きます)
5月26日(土)から7月8日(日)まで、泉屋博古館にて開催される「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ ―住友コレクションの近代日本画」に関わる情報を紹介します。
本展は、住友家に伝わった近代日本画の名品を、画家の筆ぐせからご鑑賞いただく展覧会です。明治後期から昭和にかけて、大阪や京都、東京にあった住友家では、それぞれの地域の画壇に所属する日本画家たちの作品がかけられ、鑑賞されていました。東山魁夷、菊池容斎、富岡鉄斎、竹内栖鳳など近代ならではの表現を求めた日本画家たちの名品をご紹介します。
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「この筆ぐせがすごい!近代日本画家たちの競演!」
泉屋博古館で開催される「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ ―住友コレクションの近代日本画」。住友邸を飾った日本画家たちのくせのある名画が勢揃いの見逃せない展覧会です。近代日本画の名品を画家の筆ぐせからご鑑賞いただきます。本特集では、住友コレクションの近代日本画から6名の画家を選出し、泉屋博古館分館長の野地耕一郎先生に彼らの「筆ぐせ」の魅力をご紹介いただきます!!泉屋博古館で開催される「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ ―住友コレクションの近代日本画」。住友邸を飾った日本画家たちのくせのある名画が勢揃いの見逃せない展覧会です。近代日本画の名品を画家の筆ぐせからご鑑賞いただきます。本特集では、住友コレクションの近代日本画から6名の画家を選出し、泉屋博古館分館長の野地耕一郎先生に彼らの「筆ぐせ」の魅力をご紹介いただきます!!
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特集vol.1
<菊池容斎編>
◆手塚治虫のご先祖様とも交友。和洋をハイブリッド化した近代画家の先駆け。
菊池容斎 桜図 弘化4年(1847) 絹本着色・軸 86.0×175.2㎝
菊池容斎(1788-1878)は江戸の幕臣だったが、18歳頃から狩野派と沈南蘋の長崎系写実画を学んだ。脱サラ(脱幕)して京阪に滞在し、円山四条派や土佐派、浮世絵などをさらに習得。西洋の絵手本や石版画も収集して西洋画法も研究した。偉大な漫画家手塚治虫のご先祖様手塚良仙という蘭方医と交友して、いまでいう美術解剖学のような指導も受けた気味がある。和洋の多様な絵画の筆法をハイブリッド化して、容斎は独自の覇気のある作風を築いた。この図の桜の花びらの装飾的なあしらいや遠山に効かせた群青や緑青の施色はやまと絵風であり、雄渾な樹幹の表現は狩野派を思わせながら四条派あたりに学んだ点苔表現を変容させたハッチングのような筆致がみえる。梢まで何度もねじ曲がった枝の広がりを太く長い走るような墨線で冷静に合理的に描くのが容斎の筆ぐせ。樹木全体がまるで複雑にのびた脳内の血管のように見えてくる。
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特集vol.2
<森琴石編>
◆西洋画法も取り込んだ人工楽園のような風景画。
森琴石 山水図 明治30年(1897) 絹本着色・軸 171.2×87.5㎝
森琴石(1843-1921)は、
摂津国有馬郡湯元(現・兵庫県神戸市)の商家の生まれ。14歳前後から地元の絵師に南画を学んだ。
明治維新後には上京して写実的な「鮭」の絵で知られた高橋由一に洋画を習い、さらに諸国を歴遊して清国画人とも交流。
細密な銅版画でも知られるマルチな文人画家だった。
画面の中央あたり、重畳とした山水画のなか、うねりながら山奥にのびる山道を二人の文人が歩みゆく。
画中の賛には、胸中山水の理想郷に精神を自由に遊ばせることを喜びとする文人の気持ちが詠われている。
緑青や群青を多用した山容や樹木、岩石の皴法など丹念な描き込みは来舶した清国画人からの感化を感じさせるが、合理的な空間の奥行きには西洋画法が生かされている。
琴石の線質は、銅版画も試みた硬質で明快なところに「くせ」がある。それによって練り上げられた山水画は、人工楽園の趣がただよう近代的な「風景画」への指向も透けて見えるようだ。
(注:行間文字の色は森が少し変更させて頂きました)
特集vol.3<富岡鉄斎編>
◆和漢の画法を徹底的にカスタマイズした鉄斎の我法
富岡鉄斎 古柯頑石図 明治45年(1912) 紙本着色・軸 121.5×40.3㎝
近代の文人画家で、もっとも個性的なのが富岡鉄斎(1836-1924)だ。鉄斎は、京都三条衣棚の生まれ。諸学を修め高潔な人格を尊び、画もまた人間性を高める一つの遊戯であるという姿勢を貫いて、和漢の様々な書画に触れた。多様な画法を学びながら、そこから逸脱した独自な筆法を編み出すが、それは結果的にセザンヌやフォービスム(野獣派)の粗放な描法とも重ねられて、のちに世界的に評価された。古柯は古びた枝、頑石はてごわい岩の意。枯木竹石のモチーフは、孤高な様が文人に好まれ、さかんに描かれた。鉄斎は、勢いにまかせた筆遣いで描き切ったように見せながら、岩肌にはかすかに群青を施し、枯淡ななかに気韻を点じている。その手口がただ者ではない。賛文には明の文人李日華の画法に倣ったとしているが、むしろ我儘な筆ぐせによる徹底した自由さが、結果的にモダニティーに通じてしまっている。我儘とは「われのまま」なのだ、と77歳喜寿の鉄斎の筆が主張している。
特集vol.4<竹内栖鳳編>
◆四条派の筆法をターナー風にアレンジ。
竹内栖鳳 禁城松翠 昭和3年(1928) 絹本着色・軸 62.2×72.2㎝
竹内栖鳳(1864-1942)は、京都御池通油小路の料亭の長男として生まれたが家業を継がず、好きな絵の道に進んだ。四条派の筆技を基礎に、幅広い古画研究によって諸流派の様式を折衷して「鵺(ぬえ)派」と悪評された。明治33年(1900)パリ万博の際に渡欧して、彼の地でコローやターナーに共鳴。帰国後はそれらも融合した風景画に新風を吹き込んで京都画壇の花形となった日本画家だ。禁城とは、戦前まで皇居のことをさした。近景のお濠の輝く水面から遠景の櫓までを捉えた奥深い空間に溶けつつも浮き上がる樹木のシルエットは、コローやターナーの絵から学んだ方法だ。その松の枝振りは、濃墨で形を整えた上に群青や緑青の淡彩をわずかに差して滲ませた透明水彩のようにも見える。栖鳳は、俳句も深くたしなんで軽妙洒脱な筆技を根本とする四条派の系譜にありながら、そのローカリティを武器にグローバルな絵画に通暁しえた希有な画家なのだ。鵺だった青年画家は、雅号の通り鳳に変身したのである。
特集vol.5<小林古径編>
◆鉄線描+似絵+琳派で出来たフランス人形。
小林古径 人形 昭和14年(1939) 紙本墨画淡彩・額 66.0×75.0㎝
小林古径(1883-1957)は現在の新潟県上越市の生まれ。青年時代は安田靫彦らと共にやまと絵による歴史人物画の研鑽を積んだ。大正期に再興された日本美術院の同人となり、大正11年より一年間欧州に留学。その時、大英博物館での中国古典絵画の模写によって絹糸のような美しい「鉄線描」を修得した。そして、余白を生かした無駄のない構成による古径の謹厳な作風は、のちに「新古典主義」と称され、昭和戦前期の日本画に大きな影響を与えている。このフランス人形は、渡欧の記念に愛娘への土産として手に入れた古様ながら典雅なもの。顔や手は肥痩のない鉄線描で形を整え、黒い服は水墨のたらし込みと部分的に堀塗りなど琳派的技法による濃淡を効かせて立体感を表わしている。濃墨による柄の浮き出し法は鎌倉期の似絵などの衣の表現にも通じている。謹厳な作風ゆえに逆に筆ぐせを感じさせないのが、古典絵画に精通した古径ならではの技量ともいえそうだ。
特集vol.6<東山魁夷編>
◆円山派系現代画家、筆ぐせを見せないのが「癖」。
東山魁夷 スオミ 昭和38年(1963) 紙本着色・額 88.0×129.0㎝
東山魁夷(1908-1999)は横浜に生まれ、神戸で育った。東京美術学校で円山派系の日本画家結城素明に学び、昭和10年(1935)まで約2年間ドイツに留学。西洋絵画研究の一方で日本美術の特質を深く自覚した。そうした特異な体験から戦後日本画を代表する《残照》や《道》などの名作が生まれた。スオミとは、フィンランド語で「湖沼」という意味。この絵は、昭和37年(1962)の北欧をめぐる白夜の旅の成果である。地平線の彼方のかすかな光が幾重にも湖面を照らし出し、白夜の張りつめた空気が風景の荘厳を伝える。その深遠な表現は、元をただせば円山派の没骨法の変容ともいえる絵筆の洋画風タッチによる重厚感と、自然の神々しい光を取り込むことで成立している。戦後の日本画に求められたのは、油彩画の絵肌にも負けない重厚さだったから、魁夷の表現はそれに適うものだった。線描主体の「描く」絵から「塗る」絵画への転換は、おのずと筆ぐせを抑制することになったのである。