有馬の近代教育の礎を築く…森琴石実父「梶木源次郎」

2017年4月4日 更新

 

有馬の近代教育の礎を築いた
・・・・   森琴石実父「梶木源次郎」

 

●森琴石の実父梶木源次郎は、幕末~明治初期の有馬に於いて、土木事業や物産振興など多岐にわたり多大な業績を上げた人物です。この度、明治初期に‐有馬の小学校創設の礎を築いた‐資料を入手しましたのでご紹介致します。
●森琴石の実父梶木源次郎の発想・行動力の背景はどのようなものだったのだろう!
ますます興味を引きます。
義父(舅)寿太が書き残したものに「梶木源次郎は、出石の仙石騒動後、身内の森猪平(後年、森琴石の養父となる。大阪での通称は出石屋善蔵、自称出石屋棄造と名乗る)らと出石を出た」とある。
有馬に住みつく以前の梶木家、梶木源次郎について探ってみたいものです。
●森琴石は、実父梶木源次郎のDNAを、芸術(南画・銅版画)・教育(教科書等の著編者)分野で発揮した。

 

 

『有馬郡誌 下巻(町村誌)
編者:有馬郡誌編纂管理者 山脇延吉
発行者:坂本広三郎
発行年:昭和4年9月10日・昭和49年3月15日

該当箇所
三 有馬町誌
(85頁の中ほど 梶木源次郎が記載黄色でマークしています。
・・資料の原文中、一部の漢数字はアラビア数字に、旧漢字は当用漢字に置き換えています)

教育

イ,幕政時代
[寺小屋]念仏寺魁山・福永治兵衛・谷本吉兵衛・梅村雅次郎・次いで菅原周音等町家の子弟を集め 習字を教授す。平仮名・名頭・国台・商売往来・往復文等にして多き時は三十人、少なき時は十人内外なりき。珠算は松原吾市較、高尚なるは田中常宅教授す。子弟何れも十数人なり。明治4年春頃、県下美嚢郡野瀬村より、医師藤野藤一氏来りて、開業の傍ら漢籍を教授す。即ち小学・四書・十八史略等にして、子弟は十数人なりき。留まる事1年余、次に京都より伊藤経次郎来りて、国語漢文を教授す。子弟十数人に過ぎず。留まる事1年余なり。

ロ,小学校令発布後
〔小学校〕明治6年11月6日創設、有馬町立湯山小学校と称す。これより先、明治3年1月当戸長梶木源治郎の主唱によりて、従来の寺子屋教授を廃し、町内報恩寺内本堂の一部を以て、仮教場に充て、生徒十数名を集め、三田旧藩士松原金衛門を招し、無等科無制限にして、読書・習字・算術を授けしにより、漸く設備の端緒を見るに至りしなり明治5年8月学制発布せられたるを好機とし、設備を拡張し、本県令の許可を得て、湯山小学校と称し漸く普通教育の施設を開く。明治15年5月、小学校綱領の頒布に基き、有馬郡第2番学区町村立湯山小学校と改称し、その科程、初等・中等各3ヶ年とし通じて6ヶ年の学期に設備変更す。明治18年8月、小学校令の改正に従い、中等科を廃す。校舎頽廃用に堪えざるに至りしによりしにより、元、清凉院に移転す。明治20年4月1日、19年4月の小学校令により、十番学区湯山町立湯山尋常小学校と改む。明治24年4月1日、卒業者補習の必要を認め、温習科を増設す。明治26年11月12日、校舎を改築す。明治29年7月5日、湯山町を有馬町と改めしにより、有馬町立有馬尋常小学校と改称す。明治34年4月1日、有馬尋常高等小学校と改称し、高等科を併置して現在に至る。

創立以来の入学生並びに卒業生下記の如し
明治20年迄の入学生平均18名、卒業生平均10名、 明治30年迄入学生平均37名、卒業生22名、明治40年迄入学生平均65名、卒業生36名、45年迄入学生平均45名、卒業生32名、大正5年迄入学生平均57名、卒業生33名、大正13年迄入学生平均65名、卒業生59名にして、入学生総数2,246名、卒業生1,527名なり。

創立以来の校長次の如し
明治22年より大正4年に至る26年間、能勢米次郎氏、大正4年より同6年に至る2ヶ年、 橋村次郎氏、大正6年より9年に至る3ヶ年、小前由太郎氏、大正9年より引続き、現校長大南丈太郎氏就任す。

ハ,実業補習学校 以下は省略致します。

松原金衛門については現在詳細不明です。

 

 

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