2015年3月18日 更新
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森琴石HP 関係人物:鳥居断三(四)として後日追加致します
森 琴石 心友「鳥居断三」は
・・・ 格式高い家系だった(『岐阜県蘭学史話』)
鳥居断三は大垣藩の家老だった!
・父「玄琳」は京都出身の大垣藩医師
・・三男「百三」は陸軍軍医
・・先祖は京都留守居役
■『岐阜県蘭学史話』146頁に大垣藩医師の項に、森琴石と親しかった「鳥居断三」の父「鳥居玄琳」が紹介されています。
■たった3行の文章と、2行の注釈という短い文中に、本人と、先祖、子孫の貴重な情報が含まれています。ご紹介したいと思います。
■鳥居家の関係者には歴史的に名高い人物がいるようです。
■森琴石と鳥居断三との関係は、明治時代に知り合ったのでは無く、互いの先人達からの知己だった可能性があります。
■下に『岐阜県蘭学史話』からの引用文と、用語や登載人物について簡単に補足致しました。
『岐阜県蘭学史話―江馬蘭学塾とその周辺』
・著者 :青木一郎 他
・発行 :江馬文書研究会 他
・発行年:昭和54年11月17日
・総頁数:246ページ
・該当頁=146頁
鳥居玄琳
深沢氏ともいう。西京の人。飯田玄泉の門人也。①飯田氏の推挙にて大垣市に仕う。
後還俗して伝之進といい、御側用人迄立身し、其②末子家をつぎ伝うと称し、今は東京官員となる。
この先祖、鳥居唯右衛門と称し、御京留守居役を勤め、元禄赤穂騒動の時、大野九郎兵衛此の宅に来たりしと。
注①飯田氏―飯田玄泉。
注②末子―鳥居断三、大垣藩評定局上局総長。維新後は三河県知事、権大参事、柏崎県知事などを歴任し、控訴院評定官に任じられた。
その三男が陸軍中将鳥居百三で、その夫人つるは春齢江馬益也の妹である。
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鳥居断三(森琴石の心友)
大垣藩評定局上局総長
維新後は三河県知事、権大参事、柏崎県知事などを歴任し、控訴院評定官に任じられた。
補足説明
大垣藩評定局
慶応元年(1865)第2次長州征伐に参戦し、帰国後は軍制改革、藩政改革を行う。藩政改革では評定局を新設した。
評定局は上下2局に分れ、上局は日々の改革を、下局は生産上昇を司り財政再建を目的としていた。
鳥居断三は、この上局の総長だった。
権大参事
①
明治維新後、それまでの藩主は藩知事と名称を変え、家老的役割として権参事(大参事)1名、少参事複数、更に大属(だいさかん)、少属が置かれました。大参事は藩を取り仕切る実質的指導者の事。(byヤーフー知恵袋)
②
明治時代初期の府藩県三治制の時期に置かれた、地方官の長官に次ぐ官職。現在の副知事、幕藩体制における家老に相当する。(byウィキペディア)
★鳥居断三は、今でいう副知事であったようだ。
控訴院評定官
1886年5月5日,勅令 50号をもって制定された裁判所官制により,それまでの控訴裁判所を控訴院と改称した。
東京,大阪,名古屋,広島,長崎,宮城,函館におかれ,同院の裁判官は評定官と称した。
鳥居玄琳(鳥居断三の父)
・飯田玄泉の門下
飯田玄泉
①
兄玄俊が早死した為、玄仙は叔父「立川唯八」の養子となっていたが生家に戻り飯田家を相続した。吉右衛門と称し御詰番所を勤めたが、後望んで医師となり剃髪して玄泉と称した。
至って篤実の人で書を能くした。
飯田家は巧妙なる中興医の祖「今小路道三」の従弟なり。
京都にあって高名なるゆえ、大垣候が玄泉を抱えたいと望んだが、田舎を好まなかったのか、辞退して門人「深沢元琳」を推挙した。
その後又大垣候から仕えて欲しいと請われた為仕える事になったが、すぐに仕えなかった為元琳の次席扱いとなった。
弟の松倉春仙(松倉家の養子となる)も大垣藩医師。
同藩医北尾春圃の門人。
・・・・・・(by『岐阜県蘭学史話』143、134頁/大垣藩医師:飯田玄泉・松倉春仙)
②
1647-1725 江戸時代前期-中期の医師。
正保(しょうほ)4年生まれ。京都の人。
名古屋玄医にまなび,古医方をおさめる。
研究に専念して患者をみることはすくなかったが,難病をよくなおしたという。
享保10年6月5日死去。79歳。
名は棟隆。号は福謙斎。字(あざな)は玄泉とも書く。
・・・・・・・・(byコトバンク)
鳥居唯右衛門(鳥居断三の先祖)
・京都留守居役を任じた
・・元禄赤穂騒動の折「大野九郎兵衛」が身を寄せた
京都留守居役
商人や掛屋との交渉に当たり,また諸大名蔵屋敷留守居との交際を任とした。このほか京都に藩邸をもつ大名家には,京都留守居を置いて藩の代表者としていたが,幕末期にはその役割の重要性が高まった。(byコトバンク)
大野九郎兵衛
播磨赤穂(あこう)藩の城代家老。元禄14年(1701)藩主浅野長矩(ながのり)の切腹・除封のさい,公金の分配をめぐり大石良雄と対立し,退去,逃亡したといわれている。(byコトバンク)
鳥居百三(鳥居断三の3男)
・陸軍軍医
・・妻は江馬春齢(第7代)の妹
著書に『最新生理衛生講話』(1912年,大阪,藤谷崇文館出版, 173p )
ウィキペディア:軍医総監任官者では
鳥居百三/昭和3年3月8日/朝鮮軍軍医部長 とある。
江馬益也(第7代春齢)
江馬蘭斎の玄孫(やしゃご=孫の孫)に当たる。
※大垣で初めて蘭学塾を開設したのは2代目春齢(江馬蘭斎)で、江馬細香はその長女に当たる。
7代目春齢(益也)は、明治末年、東京・京都の両帝大に「江馬塾」の原書を寄贈した人物である。
頼山陽との縁
・『岐阜県蘭学史話』-貴重な資料
★鳥居百三の妻「つる」は、女性詩人として著名な江馬細香は江馬蘭斎の妹であるから、「つる」は江馬家の子孫の一人であるようだ。江馬細香は頼山陽と恋仲であったことは広く世間に知られている。
★what’s newではこの何回か「頼山陽」を取り上げてきましたが、この度の情報でも頼山陽に関わる人物が登場してきました。やはり何かのご縁があるのでしょう。
★『岐阜県蘭学史話』はそれほど大きな本ではありませんが、貴重な情報が詰まっており手元にあると重宝な一冊です。