2014年6月28日 更新
前回
芸艸堂:創業時での「富岡鉄斎と森琴石」 のつづき
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門弟「山名友石」著書の序文:なぜ富岡鉄斎だったか?
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森琴石は
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墓碑の撰文は行わなかった
・・・自分の墓にも書かせなかった
他人の著書に<序文・跋文>は書かなかった
跋文などを揮毫したのは
・・・1:自画への落款、箱書き・他の画家への箱書き
・・・2:自著『墨香画譜』の跋文
・・・3:自著『墨場必携題画詩集 森琴石編纂』の識
■森琴石の調査で割に早い時期に気づいた事が有ります。
それは
1:森琴石は自著以外、他人の著書に序文・跋文は書かなかった
2:墓碑などの碑文の撰文は行わなかった 事です。
■著名な先輩画家や親しい画家の箱書きは随分したようです(森家に資料現存)。
■森家の調査では森琴石に最大の影響を与えた人物として真っ先に<森琴石の師匠たち>が挙げられるが、その師匠たちは碑文の撰文をし、歿後に友人たちが墓碑に碑文を記している。
例えば
森琴石の師匠
・・妻鹿友樵
・・・・大阪「一心寺」顕彰碑=何礼之篆額、藤沢南岳撰文、田中精巧書 によるもの
・・・・森琴石著『墨場必携 題画詩集』上への 題字揮毫
・・鼎金城
・・・・友人橋本香坡が墓碑の撰文
・・・・・・・・関連資料:鼎金城の墓碑
・・忍頂寺静村
・・・・小原竹香撰の墓碑銘(関連人物:師匠 忍頂寺静村)あり
■森琴石の大親友「藤澤南岳」をはじめとして、森琴石と親交した多くの画家・儒者たちは<碑文の撰文>や、他人の著者への<序、跋文>を多数手掛けている。
■森琴石は森琴石の儒学や、南画の師匠たちでさえ行った<碑文の撰文>や著書への序文等の揮毫、<墓碑銘>の作成などを、何故森琴石は行わなかったのだろうか?
■森家の調査では「森琴石に画を学んだ」や「大阪の画家森琴石に嫁いだ」と、墓碑の由来に森琴石の名前が刻んだのを見たのは、門下「佐藤僲友」の墓参、森琴石3番目の妻「ヤス」の実家、鯖江の万慶寺の近くにある山田家(北村家)の墓参で拝見した2つの墓碑のみである。実際もしかするとこの2つ以外にもあるかもしれませんが、他は墓参した事がないので不明です。
※備考:落款とは
落成款識(かんし)の略。書画が完成したとき,それが自作であることを示すため,作品に姓名,字号,年月,識語(揮毫の場所,状況,動機等の),詩文などを記すこと。その文を款記,そのときに捺す印章を落款印という。(kotobank による)
森琴石の自跋書誌
・森琴石著編『墨香画譜 四冊』
・・明治十三年五月二十日版権免許
・・・出版人:吉岡平助・北村宗助・森本専助・吉住音吉
・・・発兄人:北村孝次郎
・・跋文=森琴石(自跋)…庚辰夏六月
森琴石著『墨場必携題画詩集 纂編』二冊
・・・翻刻御届明治十三年四月十八日
・・・・原版主:吉住音吉 外一名
・・・・反刻人:神奈川県平民 山田浅治郎
・・続編
・・・識=森琴石…「巳卯冬日 琴石逸民識」
森琴石の信条
…儒教の精神、禅思想に基づく高邁な文人魂か?
◆森琴石は師匠や、先輩達への「碑文の撰文」、門弟や、友人の著書への「序文・跋文」は書かなかった
◆森琴石は自分の死後に、墓碑に「森琴石の伝記や顕彰する事は固くお断りしたい」と、身内や門下、友人たちに重ね重ね依頼していたと思われる。
◆森琴石は「生きている時に最善を尽くす事」を信条とし、(現世でも顕彰されるに値しない自分なのに)死後にまで褒め讃えられたたいというのは<俗物的な欲>としたようだ。
◆儒教の精神や禅思想を重んじ<謙遜・潔さ>を心がける森琴石は、強要はしないが、そのような自身の考えは、身近な親族や門弟たちには説いていたに違いない。
※森琴石の考え方
★what’s new「森琴石が語る・・・真の南画家、頼山陽のエピソード等」
「絵画清談 記事」 他多数
山名友石
・・珍花図譜』…卓越した花卉デザイン
・・模写も描けるマルチな才能
森琴石は
・山名友石の才能を見抜き
・・・富岡鉄斎に序文を託した
・・・ つづく ・・・