森琴石の作品所蔵者:芝川又右衛門

 2012年6月11日 更新

 

『日本画大成 26 大正篇』所載、森琴石の作品と所蔵者

前回の続き
第2回目 所蔵者 芝川又右衛門

『日本画大成 26 大正篇』より

森琴石筆 
第136図「月瀬真景図」

絹本着色。
款に『月瀬真景。丙午春日写於聴香読画廬。琴石』と、明治39年の作で、
月瀬の絶景の写生を基礎として描いたものであろう。
松樹と梅花の配置、自然にして能く趣をなし、その間に竹林茅屋あり、急流を綱によって
往来する渡舟あり、山逕に佇む遊客あり、総て実景より得たものでなければ描き得ない妙がある。
琴石の画道の進展に盡瘁したことは、明治14,5年以来、殆ど寧日なき有様だったから、
明治39年に至り賞勲局から匊花御紋章付銀杯を下賜された。
本図はこの点に於ても 好個の記念作と謂ってもよいであろう。

『森琴石翁遺墨帖 乾坤』所載の作品と同一作品
◍『日本画大成 26 大正篇』所載の「月瀬真景図」は、
森琴石第七回忌遺墨展図録の『森琴石翁遺墨帖 乾坤』の「坤」
第66番目に掲載された作品です。

◍「森琴石翁遺墨帖 坤」には、作品の寸法は縦6. 00尺 x  横3. 00尺と記述している。
『森琴石作品集』の表紙となった「月瀬真景図」は、横長の作品で梅渓全体を描いているが、
当作品は横長作品の中心部を描いたようだ。

◍穏やかな気品のある作品で、是非見たいと思う作品ですが、
森琴石クラスの作品は、所蔵者が財閥の方などの場合、
内外の要人賓客への手土産として差し上げている事が多いそうです。

森琴石第七回忌遺墨展について
 ◍森琴石 第七回忌遺墨展は、昭和2年2月2日琴石自宅に隣接した「正法寺」で開催されました。

 ◍森琴石遺墨帖(乾坤)は、昭和2年2月20日、近藤翠石編集、補助・西尾雪江、佐野岱石により発 
 行されました。

 ◍乾坤あわせて111図の作品が収録されています。
 展覧作品は会場となった正方寺に持ち込みやすい、大阪近辺の所蔵者に限ったようです。
 ◍『森琴石翁遺墨帖 乾坤』所載の作品所蔵者については、所蔵者についての情報が確かなものを、 
 当項目で徐々に紹介させて頂きます。

 

所蔵者「芝川又右衛門」について

芝川家は江戸時代からの富豪の貿易商
◍芝川又右衛門は、江戸時代より大阪の唐物町で貿易商を営み、大日本持丸長者鑑に名を連ねた豪商の一人であった。

土地開発事業に着手
◍明治以降は両替商や不動産開発等の事業を展開していった。
初代芝川又右衛門は、明治17年、当時甲東村と呼ばれていた西宮市甲東園の土地を購入、別荘地として開拓した。

浪華蒔絵学校設立
◍村山龍平の資金援助を得て、日本で最初に国産化に成功した「三平社」という名の、ランプ口金製造工場を起こし、その利益を伝統工芸の興隆に注ごうと、明治21年「浪華蒔絵学校」を道修町4丁目に開校した。経営に行き詰まり、同23年「日本蒔絵合資会社」と改称、徒弟の養成だけでなく漆器業を始めた。これが発展し後の「芝川漆器合名会社」となる。

★二代目は果樹園を造成
二代目芝川又右衛門(嘉永6年生)は明治29年、この甲東園に果樹園を造成、大量の葡萄・水密桃・柿・洋梨等を収穫し関西一円に出荷して大成功を納めた。
葡萄を用いて葡萄酒の製造も行ったそうです。
果樹栽培と共に、梅、桜、楓、楠等の植物を栽培したのが、現在の<甲東梅林>の始まりとなったそうです。

近藤翠石に画を学び、石橋雲来の漢詩の同人に参加
◍文学、漢詩を愛好し、先ずは浦上三石に漢詩を学び、三石歿後は田中牛門に師事、漢詩や和歌を詠んだ。
石橋雲来の率いる「蘭吟社」に同人として参加、晩年は八千坊に俳句を学んだ。

◍書は村田海石、小笠原寛、月岡恒臣から指導を受ける。
◍最も得意としたのは絵画で、始め西山完瑛、後に近藤翠石(森琴石門)に南画を学び、詩賛が見事に調和する専門家顔負けの作品を描いたという。
◍茶道は狩野宗朴に抹茶を、田中花月庵に煎茶を授かり高谷宗範ら数寄者と「一八会」なる愛好者グループを組織した。尚又蔵書の数夥しく、漢書は実に数万巻に及ぶと言う。
昭和13年85歳で歿する。

上記の文章の殆どは、三善貞司著「大阪人物辞典」を参照させて頂きました。
石橋雲来の漢詩の同人「蘭吟社」について
 石橋雲来(一)に
 「なにわ草」(磯野秋渚著・千葉徳松・明治38年3月)では、
  「今は石橋雲来、居を寒山寺外に占めて、
詩人をもており。
  その詩社を友蘭吟社と云ひ、画人の詩を好むものを集めては点晴吟社と云へり。」
  と、記述。・・・・・友蘭吟社の友が抜けているようです
 石橋雲来編による漢詩集「友蘭詩」に由来するのでは と思います。

数寄者としては「芝川百々」の名で、『浪華の魁』に取り上げられている。
 森琴石HP、資料紹介:大阪の有名諸大家 をご覧ください。
  (一)『浪華の魁(なにわのさきがけ)』 
  〇翰墨賞古諸派 芝川百々:伏見町三丁目 に名あり
◍森琴石HPでは、大村楊城の交流者に名がありますが、大村楊城氏は高谷宗範とも大変親しかったと、大村紘一氏より承っています。

阪神大震災後、旧芝川邸は明治村に寄贈
     ―国登録有形文化財に―
◍旧芝川邸は明治44年(1911)その甲東園を見下ろす一角に設けられた別宅で、その後、昭和2年に新館を増築、芝川家本邸となった。
平成7年の阪神大震災で煙突が折れる等の被害を受け、解体を余儀なくされ、旧邸が明治村へ寄贈され、暫く解体材の状態で保管されてきたが、平成19年に再建された。
国登録有形文化財に指定される。(思いつくまま・近大歴史遺産のたび参照)  
   

★野球が結ぶ 芝川又彦氏 との縁
◍筆者の夫隆太は、父寿太の影響で、幼少の頃より大の野球好きです。
父に連れられては、野球の観戦に良く行ったそうです。

◍夫の隆太は中学、高校、大学で野球部のキャプテンとして活動していました。
定年後は、大阪府立北野高校野球部OB会、大阪大学硬式野球部OB会、マスターズ甲子園大阪府予選実行委員会でお世話をしつつ、兵庫県還暦野球連盟の三田プリンス、関西経済人野球クラブ で野球を楽しんでいます。

◍父の寿太は、北野高校野球部の後援会副会長、最後は会長として、後輩たちの面倒を良く見、現役後輩達の試合観戦は一度も欠かした事が無かったそうで「北野高校OBの名物男」として、朝日新聞に取り上げられた事がありました。
 ※父寿太は、北野高校のOBではあるが、野球部には所属していなかった。それほどまでに野球が好きだったらしい。

◍「関西経済人野球」は、年に2度位しか活動しないそうですが、その西軍の前監督が「芝川又彦」氏だったのです。夫が経済人野球に参加させて頂いた当時、芝川監督は84歳でした。
その後 又彦氏はご高齢の為、経済人野球から離れられましたが、監督時代には少しお話させて頂いたそうで、又彦氏は<又右衛門の直系では無い>と言われていたそうです。

◍この文面を綴るに当り、又彦氏を調べて驚いたのですが、又彦氏は、明治村に「芝川邸」を寄贈したという、その張本人の方だったのです。初代又右衛門のお孫さんだった のです。

■明治村に寄贈したいきさつは、神戸新聞の記事等で見ることが出来ます。
芝川家の歴史については、千島土地 アーカイブ・ブログ で詳細に記述されています。

 

 

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