森琴石の係累を調べる

2012年5月23日 更新

 

最後尾に 文献資料『京阪神ニ於ケル事業ト人物』  
    <1919(大正8年)/東京電報通信社編/東京電報通信社発行>より 森琴石伝を載せています

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平成10年(1998)秋、神戸市立博物館で開催された「有馬の名宝」展が終了する頃、既存の文献では僅かしか森琴石の伝記の記述が無い。
更に詳しく知りたいと行動を開始し、身近な身内から協力を得る事としました。

森琴石の係累を調べる

実家より資料を取り寄せる
森琴石、雄次、寿太・・・3世代の資料
●豊中市曽根の実家の居間の書棚には、亡き父寿太の書物類が多数残っており、1階の和室には、森琴石の遺品である道具類や、祖父(森琴石の長男)雄次が残した写真、雄次宛に届いた手紙や葉書、雄次の手帳や葬儀時の記録等かなりのものが残されていた。


●夫の妹が高齢の母を心配し、実家を度々訪れてくれていたので、森琴石の調査に必要と思われるものを母の了解を得て、実家から持ち出してくれるように妹に頼みました。

妹を通して、資料類は徐々に私共の手元に寄せられてきました。

●このようにして、森琴石や家族の事、森琴石の作品や作品の所有者を知る手がかりとなる<文献資料類>がぼつぼつと揃ってきたのです。

◍伝記資料としては、森琴石が亡くなる2年前に出版された『京阪神ニ於ケル事業ト人物』、
作品の所有者を知る、森琴石第7回忌遺墨展の図録『森琴石翁遺墨帖 乾坤』、
美術人名辞典関係の書物、森琴石の作品や名前が出ている展覧会の図録、
森琴石の銅版画家の部分をメインに記述した『のじぎく文庫』(神戸新聞社)の記事コピーや、西村貞著の『日本銅版画志』などが集まりました。

◍祖父雄次宛の書簡には森琴石門下近藤翠石からの賀状がありました。
昭和19年7月、第2次大戦真っただ中に祖父雄次は亡くなったが、当時の葬儀録が現存し、お悔やみの手紙にも近藤翠石のものが残されていた。近藤翠石は病気で臥せていると書いている。
又父寿太に宛てた「舩田舩岳」の長男舩田義夫氏からの手紙の存在が後で判明しました。

森琴石の家族構成を知りたい!!
●森琴石の事を知るには先ず家族関係を知らねばならない。
展覧会後、神戸市立博物館の成澤勝嗣先生から、同癇の南蛮文庫に所蔵されている「森琴石先生薦事図録」という小冊子の写しを頂きました。

●それは、森琴石の妻の生地鯖江で開いた<第5回忌遺墨展>の模様を近藤翠石が著したもので、鯖江や福井の親族や関係者を知る事が出来る貴重な資料となりました。

●森家に残る資料も加え、森琴石の家族構成が少しずつ浮かび上がってきたのです。
『京阪神ニ於ケル事業ト人物』の伝記には私的な事も少々記述されている。
森琴石HPではこの『京阪神ニ於ケル事業ト人物』を入れ忘れていましたので、この紙面の最後尾にて紹介させて頂きます。

 (余談:『森琴石翁遺墨帖 乾坤』で近藤翠石が書いた森琴石伝では、
森琴石が清国文人と交流がある事を伝えている)


過去帳を写す
●過去の家族関係を知るには、一番てっとり早いのが過去帳だと、実家の仏壇にある過去帳を借りてきて、ノートに手書きで写し、又コピー機でもコピーした。

●過去帳は表紙が外れ、しみなどの汚れがあり、書き直したいと思ったが、三井銀行の祐筆まで努めた祖父雄次が<達筆な文字>で書いた大切なものである。

過去帳には森琴石の実母の名前は書かれていなかった。

日付の下の戒名の下には歿年月日と実名が書いてあり「・・・・・弟」など、関係が具体的に分かるようにも書いてあり、「・・・村のXX」や「・・・屋XX兵衛」など、地名や屋号も書いている。

琴石の養父は過去帳では「善蔵」になっており、「善蔵の父、初代善蔵、2代目善蔵、善蔵弟」などの記述があり、森琴石の養父は善蔵と名乗っていたようだ。
過去帳を元に早速家系図らしきものを書いてみるが、過去帳だけでは不系図を作るのは充分では無く戸籍謄本が必要となった。

 

戸籍謄本を取る
●森家では森琴石が最後に住んだ北区高垣町の住所を本籍としている。
正確な家族構成を知るには<戸籍謄本>を取るのが一番と思い、戸籍謄本の原本がある大阪北区役所に行き、原本の写しを取って来ました。

しかし、写しのものは文字が小さい分かりにくく、詰めて書かれており、コピーの汚れや消えかかった文字もあり、非常に読みにくいものです。

●私共は神戸市立博物館の成澤勝嗣先生を頼りとし、上記書簡や資料類などの内、我が家で読めない文字は、博物館まで幾度か尋ねて行っては読んで頂きました。
成澤勝嗣先生は嫌な顔ひとつされず丁寧に教えて下さいました。

話はそれますが、森家の本籍は、大正時代には大阪市東区伏見町の住所だったのです。
伏見町は森琴石が若い頃住んでいた住所です。下に書いたいきさつで判ったのです。

 森琴石の孫「加津」は、森琴石の長女「昇 しょう」の2女で、七才になる前「森 雄次」の養女となりま
した。

その「加津」が四日市の堀木氏に嫁ぐ折に持参したもので、加津の二女飯田知子さんの家には、
加津の遺品の中に大正 12年6月6日付けで取り寄せた「戸籍謄本」が残されていました。
当時は婚姻関係を結ぶ時には、出生の証明のt不可欠だったのでしょう。

   謄本では本籍地は東区伏見町3丁目3番屋敷となっている。
因みに前戸主は「亡養父 森 猪平」と書かれており、戸主の森琴石については「亡猪平養子」と
記述されている。

   ●加津については 資料紹介:「孫 森 加津の日記」に記述しています。
●当ブログ中の固有名詞は、森琴石HP http://www.morikinseki.com/ トップ頁、
中央下のグーグルカスタム検索で調べる事が出来ますので、お手数ですが是非お試し下さい。

★森琴石HPでは、祖父を「森 雄次」と記述しているが、戸籍謄本では全て「雄二」となっている。
森琴石のHPで「雄次」としたのは、森琴石の日記や祖父の自筆の書き物では「雄次」と書いている事が多く、「雄次」の方が森家での通常の書き方と考えた為です。
『森琴石作品集』では 戸籍謄本に従い「雄二」としました。  

★森琴石について、既存の伝記では、「父は有馬温泉の梶木源次郎で、4歳の時大阪の森家の養子となった」とある。養子に行ったのが8歳と書いてあるものや、養父の名前が森善作や善蔵となったりしている。文献での記述は一貫性が無い。

 

森琴石の実母の名前は?
我が家が取得した森家の謄本には、琴石の実母の記載はありませんでした。

 

有馬温泉、森琴石の生家に問い合わせ
●翌年の平成11年1月半ば
「有馬の名宝」展の開会式で、森琴石の生家、有馬温泉の現当主の梶木雅夫・和子ご夫妻とは挨拶を交わしていましたので、ためらうこと無く連絡をさせて頂きました。

●梶木雅夫さんは、有馬グランドホテルの社長で有馬温泉観光協会の会長をされています。
「森琴石の実父梶木源次郎についてはどの文献にも名前が出るが、
   実母についてはどこにも書かれていない。
   森家の過去帳には歿年及び戒名が記されているが、名前が書かれていない。
   是非実母の名前を知りたい」 と、
過去帳に書かれている実母の歿年と戒名をお知らせして、実母の名 前を調べて頂くようお願いし
ました。

梶木雅夫氏より返事を頂く
●何日後かに封書が届きました。
中には<前戸主;梶木源治郎>と書かれた写しが入っていました。
(梶木家の謄本は、源次郎で無く源治郎)
森琴石の長兄「梶木源之助」の謄本のようだ。

しかし謄本には、梶木源次郎の妻の記載は有りませんでした

江戸時代の戸籍は妻の記載は無かったのだろうか?
私共の不勉強で、未だ<戸籍法に関しての正確な知識>を得ていません。

●封書と前後して、お電話がありました。
「梶木源次郎の妻(森琴石の実母)の名前は調べたが判らなかった。
過去帳に森家の過去帳と同じ日付と同じ戒名があるので、その部分をFAXで送信します」  と。

しかし梶木家の過去帳にも<森琴石の実母の名前>は書かれていませんでした。

森家、梶木家の過去帳の日付と戒名は一致、
「智願妙重大姉」という戒名から 名は「しげ」では無いか?と、推察しました。

 

 

『京阪神ニ於ケル事業ト人物』  
一九一九(大正八年) 東京電報通信社編 東京電報通信社発行

森 琴石君

森琴石君は関西に於ける画界の耆宿(きしゅく=徳望の高い老人)として、技能超越、人格崇高にして、大家の名を成し、姫島竹外翁と相並びて、大阪画伯の代表的人材として重視せられつゝあり。

君は摂津国有馬郡有馬の人にして父を梶木源次郎氏と云い、君は第四男なり。天保十四年三月十九日を以て生まれる、名は熊吉、字(あざな)は吉夢(きちむ)、琴石と号し、鉄橋道人、聴香読画楼(ちょうこう どくがろう)等の別号あり、先年熊の名を繫と改める。

君の生家は代々商売たりしが、生後間もなく森善作氏の養子となる、嘉永三年八月、父君に請うて大阪に出、時の大家鼎金城(かなえきんじょう)翁に師事して画法を学び、文久元年師の没するに遭い、忍頂寺静村(にんちょうじ せいそん)に就き、南宗派の描画を修める。
元治元年大阪の儒者、妻鹿友樵(めが ゆうしょう)、高木退蔵翁等に就き漢学詩文を学び、明治六年東京に上り、洋画家高橋由一(たかはし ゆいち)に就いてその画法を学び、東洋画の精髓に、西洋画の長所を参酌(比べて良い方を取り悪い方を捨てる)して、対照比較し以て研鑚するところあり、その蘊奥(しんおう=奥深い)を極める。
技熟するに及び中国、九州、北陸、東海道等各地の勝区を探り歴遊年あり、
明治十六年、全国絵画品評会を発企し、又学画会、点晴会、日本南画会等を設立して、その道の向上発展を図り、
同二十三年、樋口三郎兵衛氏と共に浪華画学校を起し教鞭を執り、同年九月宮内省より御用画の命をこうむった。
日清の戦役に際し山水二幅を広島大本営に、同三十三年、東宮御慶事奉祝画献上等、何れも御嘉納の光栄に浴した。
二十六年十二月、賞勳局より銀盃を下賜される。
明治四十三年倫敦(ロンドン)に開かれた、日英博覧会に「松林山水」の大作を出品して、欧州人の賞讃を博し、英国の美術雑誌スタヂオにその賛評を掲載された。   

その他内外の共進会、博覧会等に出品して金銀銅牌等受賞数十回に及んだ。
大正二年、第七回文部省美術展覽会、審査委員に任ぜられ、最も公正の審査を以て知られる。
その著すところ、南画独学、題画詩集、墨場必携等あり、現時帝国絵画協会、日本美術会、大阪絵画会委員、南宗画会顧問、日本画会評議員たり。

君、温容仙骨、優雅寛裕にして大家の風を備える。
その卓絶する技能と相俟(あいま)って声望、ますます隆々である。
頃来、褥竪の冒すところとなり病にあり(重病の事)と聞く、ひとえにその回復を望むものである。
令室保子女史との間二子あり。男雄二君は職を三井銀行に奉じ、女昇子嬢は伊勢の人、堀木氏に嫁ぐ。
君は尋ねられれば、だれにでも優しく教えるので、来訪する者多く、徳風常に家庭に満ち、毫豪を請う者、東西より南北より訪れ、何物かを得られなければ帰らず、画債(依頼画)山積する所、琴石翁が大家であることを知らせる。

:(  )は森家で付け足したもの。保子は通称名で戸籍ではヤス。
      <二子あり>とあるが、ヤスは継母で実子は。いない。

 

 

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