新情報あり:明治28年頃の「褒賞」(森琴石下書き帳)

2015年5月28日 更新

 

明治28年ごろの履歴(森琴石下書き帳)に続きます

森琴石HP:資料 下書き帳‐明治28年頃の褒賞 をご覧ください

 

明治28年ごろの褒賞(森琴石下書き帳)

明治15年~明治28年の褒賞
・・・絵画展の新情報
・・・・●奈良博覧会(明治18年5月)
・・・・●愛知県絵画協進会(明治18年10月)
・・・・●石川県絵画品評会(明治19年5月)

■森琴石の明治28年頃の下書き帳には、これまでの森琴石の調査では情報が出て来なかった「絵画展」が3つほど出てきています。

■明治18年5月に開催された「奈良博覧会」の情報としては、博物館・美術館の情報サイト「ミュージアムカフェ:奈良国立博物館‐施設情報」として
「明治7年、官民合同による奈良博覧会社が設立され、東大寺大仏殿回廊を会場として、正倉院御物をはじめ貴重な寺宝類が陳列された。この博覧会は明治23年まで続けられ・・・・・」と書かれている。

■ウィキぺディアの情報では、今尾景年が「明治18年奈良博覧会に出品した“余物百種の図”が一等金牌を受賞、これにより景年は世に認められるようになった。」とあります。景年は森琴石より2歳半年長ですが、美術界で早くから頭角を現していたようです。

■明治18年10月に開催された愛知県絵画協進会の情報では、美術研究家の松原洋一氏のサイトに[尾張の画家児島基隆が審査員となった]と記述しています。以下同サイトより引用させて頂きました。
児島基隆=文政2年生まれ。名は吉隆。幼い頃から画を好み、はじめ森高雅に学び、のちに浮田一蕙の門に入り、田中訥言を慕った。和歌を好み、勤王の士と交わった。明治15年の内国絵画共進会で受賞、同18年に愛知県絵画共進会の審査員となる。

■明治19年5月開催の「石川県絵画品評会」には守住周魚が二等褒状受賞したとウィキぺディアに記されています。

 

 

森琴石調査…多彩な能力=多分野に広がる
今後もご期待を!!

■森琴石調査開始し始めた頃、橋爪節也先生(現大阪大学総合学術博物館館長・大阪大学大学院文学研究科教授)

「森琴石を調べる事により、他の画家や美術界の情報が引っ張り出せる。森琴石を調べる事は大変重要な事なのです!」
と、言われた事がつい昨日の事のように思い出されます。

■4月11日更新の『いちょう並木 4月号』 :表紙に森琴石の下絵(一部) での情報が、
“建築家“と思しき方が管理するブログ「光の射すほうへ」5月22日付け分に
100年前の関西の建築 1915年 その難波橋 」で紹介されていましたので、その文章を下にご紹介させて頂きます。

「OSAKA生涯学習情報誌『いちょう並木 2015年4月 389号』掲載の「おおさかKEYわーど 大阪を知るための 100 の言葉とモノの世界」の連載でも難波橋が取り上げられ、表紙には森琴石の「難波橋渡り初め図」の下絵の一部が掲載されていました。 この森琴石の下絵が気になって調べてみたら、
橋の長寿を願って東区、北区から老夫婦二組が代表で渡り初めをした際を描いたもので、その渡り初めはまさに、100年前の今日、1915 522日のことでした。橋の渡り初めは橋の完成を祝って初めてその橋を渡ることですが、多くは高齢の夫婦、または3代の夫婦がそろっている一家を先頭にして行うものだそうです。難波橋の渡り初めには大勢の人が詰め掛け、裃に打ち掛け姿の両夫婦が歩く姿に喝采が幾度も起こったと新聞は伝えています。人々は新しい橋や親柱のライオン像をきっと誇らしい気持ちで見つめたことでしょう。 100年前の出来事がありありと浮かぶような気がしました。 …」   と。

■森琴石は南画のみならず、銅版画・博物画・印刷・書誌・漢詩・書など、あらゆる分野でその多才さが認識されています。

■森琴石下書き帳:<伝記・履歴・褒賞>での情報は、明治期の混迷した美術界を解明するには<ほんのとっかかり>に過ぎませんが、枝葉を広げ、やがては実を結ぶきっかけになれば幸いです。

 

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