明治30年の「森琴石 門弟名簿」について

2014年5月21日 更新

 

 

森琴石:門人調査
日本美術協会へ提出の「門弟名簿」が基盤
  名簿資料:大熊敏之氏よりご提供頂く
●前回記述の 【門弟 山名友石著『珍花図譜』:芸艸堂での出会い】の続きを書くに当たり、森琴石の門弟名簿について触れておく必要があります。
●森琴石の門下生についての調査は、明治30年11月23日に、日本美術協会に提出した「門弟名簿」が基盤になっています。
●この門弟名簿は、平成12年(2000年)8月末、当時宮内庁三の丸尚蔵館に在籍された大熊敏之先生が、森琴石調査で我が家にお越し頂いた折に持参下さったものです。
●『珍花図譜』が森琴石門下「山名友石」である事は、この名簿が無ければ判明出来ませんでした。
●その後の森琴石や門下の調査で、この名簿の存在が大変な役割を果たす事となります。
●大熊先生は現在某大学の准教授として研究指導の傍ら、人気テレビ番組でもご活躍です。
人気番組で知名度が高い為に、その影響を懸念しご紹介するのをかなり躊躇しましたが、森琴石調査の過程では省く事が出来ないものと、今回ご紹介させて頂く事に致しました。
●下に 調度寮作成の「現今画家人名」での<森琴石のさわり部分>をご紹介、更に大熊先生との関わりをご紹介させて頂きます。

 

 明治30年11月23日
日本美術協会へ提出の「森琴石門弟名簿」

「現今画家人名」          
      調度寮
※流派と代表氏名48名の画家名が記載(南北派の滝和亭に始まり南北合派の小坂霞亭で終る)。
※森琴石は最後から3番目。
※読みは成澤勝嗣先生(当時 神戸市立博物館)

 

森琴石の項
森琴石自筆の41名の門人名が収録・実物は縦書きです

名簿の最初の舩田舩岳と山名友石、末尾の森琴石署名分を記述します
名簿の順序はイロハ順では無いので今後の検証資料ともなります。

    南宋派
大阪市東区伏見町三丁目三番屋敷 森琴石 
……………………………………………号鋨橋

最初
門人
大阪市北区堂島裏三丁目四十四番屋敷
   
元南宗派
   東京美術学校卒業
   当時同校画風ヲ専ラニス  
          船田寅蔵
          号 舩岳    

・・同人門人
 大阪市北区中之島五丁目
          中島重丸
          号 仙石

 溝口耕司 (注:住所無記)
   号  耕南

・・兵庫県兎原郡西宮
 ・・・・・・・・・
水野成吉
                                   号 仙舟

最後から8人
 ・・
媛県伊豫國新居郡西条町三百五十番戸
・・・・・・・・・・
山名亜羅彦
                                      号 友石

末尾
      明治卅年十一月廾三日  森琴石

      日本美術協會御中

 

 大熊敏之先生
 貴重な資料:門弟調査に大きく貢献
  数々のご教示を頂く
   気さくなお人柄は画面のまま

経緯
★平成12年(2000年)4月25日 初めてご連絡する
  神戸市立博物館の成澤勝嗣先生より推して頂く
  成澤先生:「有馬の名宝」展で大熊氏より森琴石の資料を取り寄せろ
        大熊先生と成澤先生は早稲田大学で同じゼミで勉学される
  私共の電話を快く受け入れて頂き、森琴石は調べるべき画家であると、
・・・・・
森琴石の調査にご協力を頂ける事となりました。

★以後お電話やメールでご連絡させて頂きました。
★大熊先生との会話メモ(調査ノートによる・意味不明なメモは省きました)
大阪の美術の事、考え方を諸々ご教示頂きました。
  但し
会話のメモを取るのに必死でしたので、言葉に間違いがあるかも知れません。
 ●豊臣家が続いていれば良かった。堺は別の文化があった。
 (森琴石は宮内庁の御用画家だったが)大阪では御用絵師は活躍する場が無かった
 ●江戸末期~明治 銅版技術が栄えた…銅版画=下絵専門で無いと描けな
 ●近代の美術史を研究するには
           漢学の素読ができる. やまと言葉の教養が必要(公文書が読めない)
           和歌が出来る=書が出来る
別紙に記述のもの…資料名や探し方等をご教示頂きました
    明治初め  :内国勧業博覧会(第5回で終了)琴石は第2~第5回に出品
    明治10年代 :万博関係は中央公論出版社から出ている
   日本美術協会
      大阪支部 :Ⅰ~2年後に名簿が出来た.
                             その後間もなく協会は無くなった
    明治20年代 :中期の画壇については
             日本美術協会報告⇒大きな図書館にある
             京都美術協会⇒京都市立美術館にある(一般人は駄目・紹介が必要)
     明治32年   :森琴石は宮内庁の御用画家のような扱いとなる
           身上書を提出・その中に弟子一覧表もある
            住所は 大阪市東区伏見町3-3
   参考文献   :佐々木剛三氏(名洛美術館館長)ペリカン社『神統美術』

 ★その他          :森琴石も必要に迫られて真景図を描いたが真景図は伝統の技芸として
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伝承していけない   等々


大熊敏之先生
森家への調査
2000年(H12)8月末
●三の丸尚蔵館にある森琴石関係の資料を持参下さいました。
明治30年12月分の門弟名簿・画帖のコピー(大正4年、大正天皇即位を祝す画、当時の日
本画界を代表する画家による22作家)・森琴石お買い上げ作品名。
図書寮所蔵の伝記のコピー など。

●森琴石の初号「蘆橋」の.粉本、その他粉本類をご覧頂く。
森琴石の賞状、メダル類(他では現存しない珍しいものあり)をご覧頂く。

2001年(H13)1月20日過ぎ
前回の続き、森琴石の下絵・画稿類をご覧頂く
「樵石 壽」で“描かれた虫類・爬虫類など“の模写画に非常にご興味を示されました。
    調査:「平成23年8月」に記述
デジカメが不調となり撮影が不可、日を改めて再度訪問して頂く事となりました。

2002年(H14)3月中旬    
●前年度カメラの不具合で出来なかった<模写画>を再度撮影。
●森家実家より届いた森琴石遺愛品をご覧頂く
お帰りの間際に森琴石の遺愛品を見て頂きました。工芸品を見るのがご趣味とかで、
森琴石の茶道具を入れる箱が非常に珍しくて良いと言われていました。その後のテレ

ビでのご活躍がしのばれる出来事でした。

●ガラス湿版写真、写真類も大変珍しいと、その場で写真に詳しい東京都写真美術館の岡
塚章子先生に「森家には珍しいものがありますよ」と、連絡されました。
3か月後の6月初め、岡塚先生が我が家に調査に来て下さった…という展開になったの
です。
◆年月の記録はありませんが、夫の隆太が東京出張の折 従姉妹の飯田知子さん(森琴石の長女「昇」の孫)と“宮内庁三の丸尚蔵館”を訪館。
◆当時の事を調査ノート(日付は僅かしか記録していなかった」)や、唯一年月確認の証拠となる出納帳(一時期欠落)を繰って振り返ってみると、あの頃の琴石への情熱がふつふつと蘇えって参ります。
調査で出会った方々、求めた資料などその膨大さに驚いていますが、ノートを見なければ少しか記憶が呼び起こせない今の自分に落胆するばかりです。
◆大熊先生は2004年『珍花図譜』を元に論文を書いておられるようです。
これに関しては 次回の 山名友石著『珍花図譜』との出会い、その後】で記述致します。 

大局的観点の森琴石論
大熊先生との会話より
「明治~大正時代、美術界は旧派や新派の間でいろいろな攻防があった。
森琴石は一介の地方画家(大阪の)として捉えない方が良い、日本の文人画家とし
て大きな観
点で論じなければならない」…と、
・・・・・・・割に最初の頃にお聞きしたお言葉でした。

『森琴石作品集』への執筆依頼
  実現出来ず大いに後悔
●大熊先生の文章は『明治美術再見Ⅱ 日本画の黎明』・明治十年代-明治20年代』での森琴石「函嶺蘆湖図」の解説、『自然に遊び、自然に謳う 近代南画展』図録での解説など、素人が生意気な事を言うようですが論点が<正鵠を得ている>と感心して読ませて頂きましたので「是非森琴石作品集執筆者に加わって頂きたい」と、ご依頼申し上げたところ快諾して頂きました。
●平成16,7年頃に原稿の進行状況をお伺いした時点では「8割方書けています」との仰せでした。
しかしながら、刊行が当初の予定より大幅に遅れてしまい、その間大熊先生はご家庭の事情、大学へ転職、テレビ出演など身辺にかなりの変化がおありだったようです。

 ●一方私は、H19年11月初めに(2度目の)追突事故に合い、1年後には外付HDを損壊するという事態が起こり、加えて森琴石作品集刊行の遅れなどでストレスが一挙に押し寄せ、心身共に疲れ、概ね私の自由にさせて貰っている<森琴石HP>を更新するのが精いっぱいでした。
正統派南画家・銅版画家・来日中国文人から三絶と謳われた文人森琴石、多才な顔を持つ森琴石を論じるには、森琴石を旧来の<文人画家>の定義ではなく、森琴石をあらゆる角度から捉えるべきだと発案当初から思っていましたので、大熊先生の見解はどうしても載せて頂きたかったのです。
『森琴石作品集』には嫁の立場では強く主張出来なかった事、やはり大いに後悔しています。

    

宮内庁とのご縁
●森琴石は日本美術協会に属し、宮内庁の技芸員を拝命するなど、皇室とは縁が深かったようです。今の時代では到底考えられない事ですが、森琴石も揮毫した幾つかの合作書画帖には当時の著名な宮様のお名前を拝見します。
●森家の身内に大(ぜん)寮に居た方がいたと、叔父の井上保氏からお聞きしていました。

●こじつけですが
私の父(野村廣太郎)は、美術印刷技術の第一人者として一目を置かれていました。皇室関係の印刷として、昭和天皇の「那須の植物誌」、美智子妃殿下作詞の「ねむのきの子守唄」の楽譜、紀宮様の為の「はじめての やまのぼり」などの製版印刷を任されていました。
因みに「はじめてのやまのぼり」の<至光社国際版絵本>は当初から父(父の会社)が製版を担い、欧米に比べまだ日本の印刷技術が低いとされた頃、国際コンクールで金賞など取っていたと記憶しています。谷内六郎さん等とも親しかったようです。
森琴石のご縁が父のご縁とも重なるように感じるのです。

 

 

 

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