2012年7月26日 更新
【菊池教中『澹如詩稿』に鼎金城の画】
―菊池教中は、江戸の豪商で「坂下門外の変」で投獄された人物ー
少ない鼎金城の資料、作品
◍森琴石の南画の師匠「鼎金城(かなえ きんじょう)」は、家系が絶えた為もあり、
金城の父鼎春嶽も含め、活動の軌跡を示す作品や資料が非常に少ない。
度々の災害や戦火が、少なさに拍車をかけたようだ。
森琴石以外の門下生達の子孫の存続も不明である。
特に森琴石の兄弟子「行徳玉江のご子孫が健在ならば!!」と、つくづく感じます。
刊行物、画帖=活動の痕跡、交流関係を知る資料
●画譜や詩文集として刊行されたものは、当時の活動の様子や交流を知る貴重な資料となります。
●鼎金城の師匠「廣瀬旭荘」やその周辺、弟子の「行徳玉江」の刊行物には、鼎金城の漢詩や交流を示した記述がある。
●10年ほど前、インターネットで、関東地方の美術館で鼎金城の画もある「寄合画帖」が展示されているのを知り、「関東地方で?」と、不思議に感じた覚えがありました。
画帖への揮毫者が誰であるか? 問い合わせをしないといけない!と思いながら、いつの間にか年月を重ねてしまい、今では美術館の地域や名前すら思い出す事が出来ません。
『澹如詩稿』がインターネットで閲覧可能
◍国立国会図書館のサーチ検索で調べたところ、『澹如詩稿』がデジタル資料化されていました。
◍6月に国立国会図書館関西館に行った際、ITカードを取得したばかりでしたので、、早速インターネットで画像閲覧する事が出来ました。
操作に慣れず時間が相当かかりそうでしたので、必要と思われるページを印刷して確認してみました。
又、インターネットでは『澹如詩稿』の目次が紹介されたサイトがあり、その情報をも参考にさせて頂き、
森琴石HP:師匠「鼎金城」の追加資料として加える事が出来ました。
『澹如詩稿』・・・美しい37名の画者による挿画
『澹如詩稿』6巻には37名の画者(澹如本人含む)が挿画をしている。
画者は当代一流の画家と思われ、いずれも美しい作品ばかりで、挿画のみを集めれば、逸品中の逸品の「画譜」となると思いました。
「天保山廻棹」・・・鼎金城の のどかな作品
淡彩で描かれた天保山の海辺、
多数の小舟が、波間をゆるやかに棹を廻らせている情景を描いている。
森琴石HP:鼎金城」の冒頭にある<対幅山水>とは 少々趣が違う。
のどかな海辺の情景からは、(宇宙観)ともいえるような、人世への広がりや希望を感じました。
一人の画家を知るには 出来るだけ多くの作品に触れる必要があると、思いを強めました。
近世文学会で佐藤 温氏が『澹如』詩稿をテーマに
―『澹如詩稿』・・・菊池教中の交流関係と経済力を知る資料―
近世文学会・平成21年度春季大会で、東京大学(大学院)の佐藤 温氏が
【菊池教中の経世意識と『澹如詩稿』】と題し、学術発表されました。
その要旨の一文が、「平成21年度春季大会発表要旨」第8番目に紹介されています。
下に要旨全文を転載させて頂きます。
『澹如詩稿』(刊本、六巻四冊、万廷元年〈一八六〇〉序)は
江戸の商賈菊池教中(号・澹如。文政11年~文久2年〈1828~1862〉)が、
弘化から安政年間にかけて作成した約三百首の詩を収録した詩集である。
教中は江戸で呉服・金融業などを営んだ宇都宮出身の富商大橋淡雅の長男で、
文人として聞こえた淡雅の影響のもと自らも文事に傾倒したが、
椿 椿山ら三十八名の画家による多色刷の挿絵や、佐藤一斎はじめ名士の名に彩られた序跋や評語など、本書は淡雅から継承した文雅の世界の豊かな人脈と経済力を想像させる
しかし、その華やかさの中にあって目立ちはしないが、本書に世情不安などを詠んだ憂国の詩が時折登場することは見逃せない。
実は収録詩の創作時期にあたる二十代半ばから三十代にかけての教中は、江戸店を維持しつつも宇都宮を根拠として新田開発を行い、同地で地主経営を展開するという経営戦略の大転換を図っている。
その背景には、義兄にして勤王家の儒者大橋訥庵の攘夷思想に感化された結果の対外的な危機意識があったと言われるが、その上で本書を検討すると、その田園詩風の作風は郊外で自ら聞墾作業を指揮する教中の実生活と重なり合い、さらに本書を取り巻く人士達も教中の新田開発の支援者としての側面を持っていることがわかる。
本発表では『澹如詩稿』を通して同時期の教中の経世意識の高まりが憂国の詩へと結実していく様子を明らかにしていきたい。
菊池教中 について
「全国名前辞典」 より
菊池教中
1828(文政11)~1862(文久 2. 8.)
◇江戸幕末の江戸の豪商。通称は佐野屋幸兵衛。宇都宮の人。淡雅の子。
1862(文久 2. 1.15)宇都宮・水戸の同志ら6名とともに江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃(坂下門外の変)。投獄され、宇都宮藩邸で禁錮中に病死。
「朝日日本歴史人物事典」 より
菊池教中
幕末の豪商,志士。父は淡雅,母は民子。
江戸に出店して巨富をなした父の跡を継いで佐野屋孝兵衛2代目を名乗り,澹如と号した。
開国に伴う経営不振と姉婿大橋訥庵の思想的影響により,熱烈な攘夷論者となる。
列強との戦争に備えて宇都宮に拠点を移し,岡本・桑島両新田を開発,その功で宇都宮藩士分に列
す。
自らを同地の領主ともみなし,輪王寺宮を日光に擁立挙兵する運動を画策するが,失敗。
次善の策として宇都宮,下野,水戸の草莽の志士による老中安藤信正暗殺計画を援助した。
文久2(1862)年1月,捕らわれ投獄。出獄後,病死した。
<参考文献>秋本典夫『北関東下野における封建権力と民衆』
その他
福岡大学図書館
江戸・明治漢詩文コレクション目録データベース
『澹如詩稿』の表紙、渡邊小華の「藤花」図など、7つの画像が公開されています。
「菊池家文書館」もご覧ください
次回につづく