神戸新聞・・・情報を求める記事掲載

 

平成24326日更新

 
記事掲載・・・友人の働きかけ

  • 三田市の国際交流で知り合った筆者の年下の友人Mさんは、生け花や英語等を教える社交的な方です。当時流行し始めた<テーブルコーディネイト>をいち早く趣味に取り入れ研鑽に励まれていました。学び始めてまだ年数が経たないのに、大阪か神戸でのコンクールで受賞されたそうで、その受賞の記事や写真が神戸新聞に掲載されたのだそうです。
  • その彼女から何かの用件で電話が掛かってきた時、現在神戸市立博物館で開催されている展覧会の事、そして曽祖父森琴石の作品や足跡を探したいと思っている事などを伝えところ「知り合いの記者がいるので、森さんの事を伝えておきます」と言って下さったのです。
  • その後間もない頃、神戸新聞社三田支局の加藤正文さんから「話を伺いたい」という連絡が入りました。「有馬の名宝」展は、神戸新聞社は主催者の一つだったので、記事にするのにはタイミングが良かったみたいでした。
  • 取材は<週日の方が都合が良い>との事で、夫は多忙な会社人間なので、筆者一人が対応しました。
  • 当時はまだ元気な母は、豊中市の曽根で一人暮らしをしていました。
    当然我が家には森琴石の作品も無く、資料も殆ど有りませんでしたので、話をすると言っても只情熱があるのみでした。出来たばかりの「有馬の名宝」展の図録は、森琴石の多彩さを知るには充分であったし、念のため私家本『森琴石翁画集』なども準備してお迎えしました。
  • 加藤記者は、明治の翻訳者井上勤による最初の翻訳本「月世界旅行」の事は良くご存知で、森琴石がその翻訳本の挿画をしていたと知り、非常に驚かれ森琴石への興味が増したようです。筆者の父が昭和の印刷界では生き字引的存在だった事もあり、森琴石が明治期の銅版印刷を牽引した事と重なり、印刷での関連性に興味を持たれ、筆者だけの取材で、記事掲載に踏み切られたのだろうと思っています。
    加藤記者はその後本社に転勤、経済記者を経て平成22年頃まで社説を担当されました.。

 

情報提供のよびかけ記事

 1998年10月6日、神戸新聞朝刊三田版等に記事掲載、加藤記者より連絡があり、日を置いて兵庫全域に紹介されたそうです

 三田版の見出しは
  富士が丘の森 満代さん「有馬出身の南画の大家・森 琴石 足跡をたどりたい」、
  「作品の大半戦争で四散 情報提供を呼びかけ」、「1冊の本に」 などとあり、最初の解説記事では
  「業績を通
じて人間像を浮き彫りにしたい」とさまざまなルートで琴石に迫る考えだ・・・と書かれてい
  る。      ・・・・・途中の記事は省略・・・・・
 
記事の最後は
  森さんは「今、やっておかないとどんどん空白が広がってしまう。少しずつ情報を集め、本にまと
めて
  いきたい」と話している。

 
と結ばれ、我が家の電話番号が書かれている。

 

記事掲載の反響

  • 記事の反響があり、翌日くらいから連絡が入り始めました。お蔭様で冷やかし電話は有りませんでした。神戸市の某出版社からはすぐにでも刊行したい口調で電話がありましたが「これから調べていきますので、本に出すのは4,5年先になります」と答えますと、これは駄目だと諦められたようです。


情報のご提供 及び 調査訪問させて頂いた方々

★ 淡路島の清水清さん・・・ご本人より

● 森琴石の南画の師匠「忍頂寺静村」の生地が淡路島である事から、忍頂寺静村の伝記のコピーや『墨香画譜』の製本されていないもの<一枚>を送って頂きました。
伝記のコピーは、忍頂寺静村についての資料は無かったので、その後の忍頂寺静村の調査の基礎となった。

★ 神戸市長田区のNさん・・・ご本人より

★ 神戸市西区のFさん・・・ご本人より

Fさんは第二次大戦中、知人が疎開先へ移転する時、お世話になったからと、大八車から掛け軸(対幅)を取り出してFさんに手渡されたそうです。
● その知人という方ですが、靭の海産問屋を営む富豪の方で、骨董美術類が、倉3つに収蔵されていたそうです。疎開先に運び出したのは、その大八車分のみで、他の倉にある分は全部戦災で焼失したそうです。
対幅の片方はFさんの妹さんが所持されているそうです。
● このFさんですが、姓が<後醍醐天皇が隠岐の島に着かれた時、岸まで舟を引いた事>に由来するそうです。後醍醐天皇の隠岐配流に関しては、後年、森琴石の山陰沖スケッチからも関連する事が出て来ました。
●掛け軸の落款にある「乙未晩春写筑州小牧」は、後に琴石の足跡を知る事柄が出てきました。

森琴石.com内 Google検索機能で「鞍手郡」で検索頂きますと、「平成10年10月」や「平成21年10月【2】■2番目」など幾つか情報が出てきます。 

●海産問屋の倉には森琴石の作品はまだあったと思われます。
●神戸市立博物館の成澤勝嗣先生に同行頂きました。
   <落款には重要な情報が込められている>事を知った最初の作品でした。

 

★神戸市灘区の大仁 勇さん・・・・ご本人より

●大仁勇氏の父親が明治44年に『西摂大観』を出版され、その中に掲載されている森琴石の「布引雄瀑図」を所蔵されているとの事。
●『西摂大観』は、大仁家に所蔵されている各画家の作品を一冊の本にまとめたものだそうです。
●お電話を頂いた後、神戸市立博物館の展覧会会場で成澤勝嗣先生を交えてお話させて頂きました。
●平成10年12月5日、大仁家を訪問させて頂きました。成澤勝嗣先生のご同行頂きました。
●大仁家蔵の額画を神戸市立博物館にご寄贈の申し入れをされていました(画者の名前忘れました)。
●「森琴石画集」の完成を首を長くしてお待ち頂いていましたが、惜しくもご逝去されてしまいました。

★ 神戸市灘区のTさん・・・・神戸市北区の芝 良空氏からの情報

●T家は大阪市で代々続く大地主で、氏名を述べますと、かなり知られた方だそうです。
芝 良空氏から仏像彫刻を学ばれており、骨董美術に造詣が深く、森琴石の
生地、有馬温泉グランドホテルの梶木雅夫社長(有馬温泉観光協会名誉会長)とは知己の間柄という事が分かりました。
●芝  良空(しば りょうくう)氏は彫刻家として著名な方で、又水墨画にも長けた方ですが、当
時三田市の公民館で講座を持たれていました。この調査の3年後位に逝去されました。

芝良空氏と女優の吉永小百合さんとの関連を示す事柄が、下のアドレスに出ています。http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/nada/miryoku/hyakusen/contents/frame_11.html

その他、芝良空氏の作品=http://icchan.sakura.ne.jp/chokoku/3chuo/3117.htm

●神戸市立博物館の成澤勝嗣先生に同行頂きました。

 

 その他、明石市の表具店の方から、お得意先に森琴石の「襖絵」があるとの情報を寄せて頂きましたが、連絡がうまくつかず断念しました。

 

 

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