森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった!

2015年6月18日 更新

 

‘‘トピックス‘‘
・・ついに判明!! 
・・・森琴石の実母……宝塚市安倉(南)の旧家の生まれ

■「智願妙重大姉」という法号以外の情報は皆無という、森琴石の実母の実態が判明しました。
■森琴石の調査開始後間もない頃、森琴石の生家「有馬温泉 グランドホテル」の梶木雅夫氏及び当時の女将「しげ」様にお会いし、森琴石の生母の事をお尋ねし「葬儀禄など何か古い書きものは残っていませんか?」とお尋ねましたが「何も分からないし、ホテルを建築する折古いものは棄却しました」とおっしゃったのでした。
■後日梶木雅夫氏からFAXで過去帳の写しを送って下さいました。
■写しには森家の過去帳と同じ{法号}の方があり、没年月日も同じだったので「智願妙重大姉」が森琴石の実母の法号である事、梶木家の過去帳にもきちんと記録されている事が分かり少し安心したのでした。
■今回思わぬ事から、森琴石の実母の事が判明致しました。
■今回より何回かに分けてご紹介して参りますが、
森琴石の実母の生家は宝塚市安倉(南町)の名家で、現在の当主阪西義隆氏は歴史ある旧家を守られ、同家に残る古い文書は「阪西家文書」として宝塚市史編集資料目録に収録されています。

 

宝塚市安倉南町は

近所に 安倉高塚古墳(あくら たかつかこふん)があります。

安倉高塚古墳=塚市安倉南二丁目に所在する古墳時代前期の円墳.日本に数例しかなく古代史解明のうえで貴重な、呉(中国)の時代の年号入りの銅鏡が発見されたことで知られる。(by 続倭人伝、宝塚の歴史を知る 等)

 

阪西家ご紹介の前に
阪西家訪問への経緯

■森琴石の実母の生家である、阪西家(分家)について記述するに当たり、阪西家にたどるまでの経緯をご紹介したいと思います。
■阪西家にたどる迄の過程には、何人かの方のご協力を頂いたこその結果なので、それらの方々をご紹介する必要があるかと思います。
■what’s new「お世話になった方々」として記述しないといけないのですが、年齢の所為か、数々の資料を広げ、又過去の記憶をたどって書く作業が最近富みに億劫になり、ずるずると先延ばしになっていたのです。
■文章が下手なので経緯がうまく伝わるかどうか自信がありませんが、森琴石調査の記録として残しておきたいので我慢の程お願い致します。

 

森琴石門弟田川春荘が取り持つ縁

神戸史学会 大国正美氏
・・・・・・・・・・・・・・・
 安倉の有力者 田中稔氏                     田中稔氏            ・・・・・・・・・・・・・・・↓                         ↓

森琴石門弟田川春荘のご子孫 共に安倉村村長として知己の間柄   阪西家(本家)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春荘と阪西治三郎(森琴石の次兄)の時代

ご協力者の紹介
大国正美氏
当時、神戸新聞社勤務の傍ら伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長・『歴史と神戸』編集長を兼任。現在は「神戸新聞社企画総務局長」としてご活躍されておられます。

田中稔氏
地域コミュニティの指導者、田川介近氏(田川春荘ご子孫)と同級生。阪西義隆氏と知己の間柄。

門弟田川春荘の画が『地域研究 いたみ 28号』に掲載
■森琴石HP調査情報[平成16年11月]では、田川春荘のお宅を訪問させて頂いた事を簡単にご紹介しています。
■関連資料:【田川春荘画の「孔子像」と地域社会】(文=大国正美/平成11年3月) では 森琴石の門弟「田川春荘」が伊丹市の稲野小学校に「孔子子弟薫陶図」を寄贈していた事を記述しています。
■門弟の田川春荘の資料を探していたところ、「地域研究 いたみ 28号」(伊丹市立博物館/平成11年3月)に、大国正美氏の論文が掲載されている事を知りました。
■資料の発行者である、伊丹市立博物館にご連絡し、同氏の論文が掲載されている書誌の入手方法を問い合わせ、その後我が家に送って頂いたと記憶しています。
・・

神戸史学会『歴史と神戸』と大国正美氏
■論文の筆者「大国正美」氏は、当時伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長としてご活躍されていましたので、該当機関にお電話したところ、大国先生は神戸新聞社に勤務されている事、「歴史と神戸」の編集長も兼ねておられる事を知らされました。
★「歴史と神戸」(神戸史学会)は、神戸の歴史を研究する由緒ある研究誌として知られています。

■当時私は「胡鉄梅と中野雪江(該当箇所の資料は既得)」・「ポンぺと中野雪江」など、中野雪江と胡鉄梅の資料が欲しくて、神戸史学会には何度か連絡を致しました。
■「歴史と神戸」は、神戸市灘区の田中印刷株式会社に事務所があり、編集局の方々は隔日の夕方にご出勤されるとかで、何回目かでやっと連絡がついたのでした。
■私共は「森琴石=有馬温泉中の坊梶木源次郎の3男 の、ひ孫の嫁」である事、「該当書誌を入手したい」との用件をお伝えしたところ、
後日「1冊在庫がありますのでお譲り致します」
との回答を頂き、ついに念願の「ポンぺと中野雪江」の資料を入手する事が出来たのです。そして<森琴石HP>に文章を掲載する許可も頂いたのです。

■お電話の対応をして下さった方が「もしよければ いつか森琴石と有馬温泉の事を是非書いて下さい」と言って下さった事もありました。
■大国正美先生とはその後、神戸の儒学者堀 春譚(ほりしゅんたん)のご子孫「堀 浩雄」氏のお宅に、「堀 春譚」の蔵書類拝見のご同行をして頂きました。⇒平成17年9月に記述

■7,8年前の事ですが大国先生から「森琴石と周辺の文人」というようなタイトルで「歴史と神戸への執筆をお願いします」と言って下さった事もありました。
■当時はまだ自信も無かったのですが、今回の<安倉阪西家と森琴石、有馬温泉との関わり>は、神戸の歴史として一文にするに値する情報では無いかと思えてきました。



大国正美氏 ⇒田中稔氏 ⇒田川春荘ご子孫 への経緯

■私は大国先生の勤務先である神戸新聞社にお電話したように思います。
「田川春荘のご子孫に是非お目にかかりたいのですが、どのようにしたら可能でしょうか?」とお尋ねしました。
■大国先生は「私も地域の有力者の方に間を取り持って頂きましたので、その方にお願いして頂いたら如何でしょうか?」と、アドバイスを頂きました。
■その後、地域のコミュニティの指導者として活躍されている「田中稔」氏に連絡し、
「田川春荘のご子孫の元をご訪問させて頂きたい」旨を述べ、その後田中氏のご尽力により、田川介近(よりちか)様のお宅への訪問が実現出来たといういきさつがありました。
■5,6年前の事、「以前訪問した際、門弟たちが寄せ画した非常に大きな2曲屏風を拝見しましたが、門弟たちの画を拝見するのに夢中で写真を撮り損なっていました。出来れば再度拝見させて頂きたい」
と、田中稔氏にお伝えしたところ、
「田川氏の健康状態が非常に悪く施設に入所中で、奥様もかなり具合が悪いそうです」
というご報告を頂き、残念ながら再度の訪問は実現出来ませんでした。
■その後も田中氏とは時折ご連絡させて頂いていましたが、この度「田川介近氏はとうとうご逝去なさいました」との残念な報告も頂きました。
■田川介近ご夫妻様は、私共を「田川春荘」の師匠の子孫として、丁寧にお迎えして下さいました。今から10年6カ月前の事が懐かしく思いだされます。
・・・・・・・・田川介近様のご冥福を心よりお祈り申しあげます・・・・・・・

阪西家訪問に向けて
阪西義隆氏‐知己の間柄‐田中稔氏
両者
歓談中:話題に森琴石が・・・・

■兼ねて知己の間柄だった両氏との事ですが、6月11日(木)の午前中、所用で阪西義隆氏を訪問され、その歓談中に「森 琴石」が話題となったのだそうです。
■「森琴石なら良く知っている。田川さん(春荘のご子孫)の仲立ちをした事がある」など等、話が弾み、義隆氏ご所蔵の森琴石の掛け軸をご覧になったそうです。

 

田中稔氏 ⇒ 我が家
我が家 ⇒ 阪西義隆氏
・・3日後、阪西家訪問

■その後、ご自宅に帰られた田中氏から、我が家に電話をかけてこられました。
「今 知り合いの阪西さんというお宅に行っていました。
阪西家は森琴石や有馬温泉の「中の坊」とは非常に所縁のある旧家で、中の坊から養子に来た人や、中の坊に嫁いだ人がおり、阪西家から嫁いでいった方の中にも森琴石の作品を所持している人がいるそうですよ。良ければ早速阪西さんに連絡して会われてみては如何ですか?」と、
電話越しから田中氏のはずむ声が聞こえて参りました。

■その日の内に夫隆太が阪西家にご連絡させて頂き、訪問及び作品を拝見させて頂きたい旨を告げました。

■早速、翌日阪西家より「2日後の14日は如何でしょうか?」とのご提案を頂き、実にあっというまに 森琴石や 有馬温泉 ”中の坊”ゆかりの  旧家訪問 と相成った次第です。

 

その後 驚く事実が・・・

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・次回より順次ご紹介致します

 

 

 

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