森琴石孫「井上保」氏からの情報・・・森琴石の3人の妻(その2)

2013年6月14日 更新

3月24日更新分 「井上保」氏からの情報…森琴石の3人の妻(その1) から 3ヶ月近く経ってしまいました。
日毎に記憶力が後退していくのを感じる昨今ですが、少し気合を入れて進めたいと思います。

  

<幼な児>を残し 急逝した「ゑい」
手紙に見る「急逝」への慌てぶり
●森琴石の2番目の妻「ゑい」は、5歳9ヶ月の長男「雄二」、1歳7ヶ月の長女「昇」を残し23歳(享年24)の若さで亡くなった。
●「ゑい」は急性の病で亡くなったらしく、「森 鍬蔵」という京都に住む親族が、驚いて森琴石の元に手紙を送ったものが残されている。「ゑい」の治療に使った「薬剤処方」が残っている(平成18年9月【2】■5番目・【3】に、ゑいの近親者杲田鉱二郎氏を記述)。
●当時の森琴石は、銅版画工房「響泉堂」を立ち上げて軌道に乗りつつある時期だったのだろう。子育てをする人、森家の一切合財を仕切ってくれる人が緊急を要したのであろう。
森家では、「ゑい」が歿して2ヶ月後に「ヤス」を二人の幼児の継母として、森琴石の3人目の妻として迎え入れた。
森家と山田家との縁談が成立した経緯は不明である。

書簡
 森鍬蔵⇒森琴石

封筒
(縦17,5cmx横5.0cm)

鍬蔵から琴石(宛名)                                       鍬蔵(住所)

大坂南本町四街目銅版製造所            西京扇屋丁
森琴石様   同姓鍬蔵           第四月十一日 午後五時
親展御座候

本文
鍬蔵 手紙1鍬蔵 手紙2

翻刻文
翻刻=槙村洋介氏(当時 飯田市立美術博物館)

当日午後四時過貴翰拝見
当日午後四時過貴翰到
      (啓・慰か)
来於えい様事御中  (琴石の妻「ゑい」)
  (搆か/ 介護?)
段々御護ノ處終に
無御本復御臨終ノ由一同
驚入候実々お昇ヤンノ御参 (琴石の長女「昇」)
被申候處見に不忍御愁傷
奉推察早速ニ下坂ノ心得ニ
御座候處段々手ノ入候用向有
之即刻不得伺此段宜
 (照か)
志可被下候漸次於貴君
  ママ
御心便ひ御自愛可被遊候
貴外拝借御悔奉申上候
其段乍略義以書中
御断奉申上尚別封御佛
前ヘ御香ニ換御備可被下候
                頓首
          時間ニテ郵便ニテ
          差支後便ニ御備え
          可仕候
四月十一日五時  鍬蔵
         この(鍬蔵の妻)
琴石尊兄

二白
既に一昨夜愚妻とおえい様は
病躰ニテ語合い随分大事ニ
ナサレと何れと申事なり別れの
        (共共か)
夢見御座候処昨夜親□□仲より
之手紙ニテ下拙不在中参拙者
申居候處安外斯尊君ノ暦書
驚愕申唱悔居申候

★森琴石妻「ゑい」については、HP内で多数記述しています。
森琴石HP,トップ頁中央下、グーグル検索機能、カスタム検索にて<ゑい>とご記入の上ご検索下さい。
★「ゑい」葬儀時、筆頭親族者として名が出る「杲田鉱二郎」の職業が分かりました。後日ご紹介させて頂きます。
杲田鉱二郎=平成18年9月【3】 などに記述。

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井上保氏の手紙には、祖母ヤスについての情報は非常に少ない。
森家の調査に基づいた註釈を加えてご紹介いたします。

「ヤス」は「鯖江藩」の御殿女中だった
内助の功高かったが、琴石歿後に変化あり
継子「雄二」とは不仲

祖母ヤスは実祖母では無い。
註:戸籍謄本で確認済み

ヤスは鯖江藩の御殿女中をしていた為、いつも身奇麗な格好をしていた。
註:その後の調べで、ヤスは全てにおいて完璧にこなせた女性だったようで、家事・子育て・森琴石の身の回りの世話・森家の取り仕切りなど、森琴石はヤスに全てを任せ画業に励んだようだ。

琴石が亡くなった時、遺産相続の折、自身の身内に配慮した為、甥の「北村勉三」にひどく窘められた。
註:遺産相続については、後年北村氏のご子孫からも証言して頂きました。
他のご子孫からも
「森琴石の死後、(琴石の孫が)ヤスを訪ねたところ、追い立てるようにして帰された」・・・・と。
どうやらヤスは、森琴石の歿後は手のひらを返したような態度を取ったようです。

自分(井上氏)が物心つき、多少遠出が出来るようになった頃、ヤスは豊中(大阪府)の住宅地に住んでいた。
註:戸籍謄本に記載あり。
◍豊中市新免は現在の豊中市本町、阪急電鉄が造成した住宅地。
ヤスは森琴石歿2年後、高垣町の自宅の地代が高額だった為、豊中市へと引っ越した。
高垣町の琴石が住んだ住居は料亭として使われたそうです。
◍豊中市の家は貸家だったそうですが、雄二と家族は第二次大戦中、大阪市北区曽根崎から豊
中へと疎開し新免に住んだ。

◍豊中市史編纂室では、森琴石の門下「永田聽泉」と共に、ヤスが住んだ新免などの調査にご協力頂きましたが、妻鹿友樵の弟子で、七絃琴奏者として著名な「小畑松坡」が、
森家と同じ町内に住んでいたそうです。

小畑松坡=「平成18年9月【1】■3番目及び注6」等に記述    

市史編纂室の方がこの小畑松坡のご子孫だった事も不思議なご縁でした。

 ◍ヤスが住んだ右側の9軒先に「永田家」がある事から、もしかすると、この永田家は「永田聽泉」のご子孫かも知れないと、当時思った記憶があります。
因みに小畑家は永田家裏側の右手5軒先に所在。
推測に過ぎませんが、小林一三との縁で知己者達がこの地に移ってきた可能性がある。


維新後、ヤスの実家は「友禅の型染め」を家業としていた。
註:父義林は士族だったので、染色業を家業としたのは維新後だったと思われる。
維新後の家業については、上記2の北村勉三氏と関連します。
◍森家には北村勉三氏の葉書が残っている。
◍後年、北村家を訪問させて頂いた折、北村家の以前の家業は<高僧が着衣する紋の入った上質の織物>を製造していたそうです。

 友禅の型染めをしていたかどうかは不明である。
◍北村勉三氏は、ヤスの兄「直」の長男。「直」が山田家から北村家に養子に入ったため北村姓となっ
た。

◍森家にはヤスの父義林と母 が写った写真や、明治1012月16日付けで、ヤスの父「義林」から届いた書簡が残されている。(封筒や切手が珍しいので下方に画像を貼り付けました)

森琴石長男雄二とは不仲だった。(口頭での情報)
註:雄二とは継母に来た時点で どうやら不仲だったとみたいです。
◍雄二が10歳で「三井下銀行」に勤仕し、家を離れ寮生活をした事は、ヤスから離れ、銅版製作
工房を作り苦労している琴石にも迷惑をかけたく無いと、早く独り立ちしたかったのでは無いかと
思われる。

 ◍森琴石は、養父森猪平から家督を相続した後は、資産の殆どを「諸国漫遊」・「東京遊学」・「銅
版技術の研修」・「銅版工房設立」・「資材・薬剤の調達」などにつぎ込んだようだ。
◍森琴石が幕末~明治に写した写真が残っていますが、この時代、写真を撮影するには一財産か
かったそうです。「日本が近代化へと歩む黎明の時期」、夢多き青年画家森琴石は、養父から継
いだ遺産は自身の夢の実現に殆ど費やしたようだ。
◍森琴石はこの大変な時期に、「若林長栄」が銅版画師として成り立とうとした折、多額の資金を
長栄に調達援助した。後月「井上保氏からの情報:森琴石の事」で触れますが、森琴石は金銭に
はあまり頓着せず、蓄財にも無関心だったそうです。

★若林長栄(長英)=「平成18年8月【3」 他多数記述しています。
★その他、ブログ内文章中に出る氏名等は、森琴石HP,トップ頁中央下、グーグル検索機能、カスタム検索にて<該当文字>をご記入の上ご検索下さい。

森琴石HP内「ヤス」記述ヵ所
平成18年9月【3】」 他、写真も多数あります。

   トップ頁中森琴石HP トップ頁中央下、グーグルカスタム検索にてお調べ下さい。

 

ヤス父「山田義林」⇒ヤス宛 書簡

封筒
(縦16.5cmx横6.0cm)

                義林⇒森琴石(宛名)            義林(住所)

大阪南本町四丁目 従越前鯖江         明治十年十二月十六日 午前十字発
 二十四番地 森琴石様 至急             越前今立郡鯖江下小路
                               山田義林

本文
翻刻=槙村洋介氏(当時 飯田市立美術博物館)

    義林 手紙(1)
  てふと(一寸)申入候、
そのおもて
  みなみなさま御かわりなくにや
  さておます事ながながてをつくし
  候へどもそのかひなく
  十三日よりぜつしよく(絶食)
  にて今十六日前四時
  つひにしきよ(死去)いたし候  

義林 手紙(続き)

まことにのこりおふく(多く)
さもし(さもじ)にしうせう(愁傷)
さつし(察し)入候みぎ
御知らせまでしめし入候

十二月十六日  父より
  おやすとのへ (おヤス殿へ)

                                                                                                                                                                                      

「森琴石 第5回忌追幅展覧雅筵」は鯖江で開催
『森琴石先生 薦事図録』・・・森琴石作品が多数
「鯖江」には森琴石の作品がありそう!!
◍大正14年4月、鯖江の料亭「若竹楼」で開催された。
門弟近藤翠石が刊行した『森琴石先生 薦事図』には、開催前の様子や展覧作品名、賛助者名などが記録されている。
これによれば鯖江や福井の所蔵者の作品が展覧されたようで、鯖江や福井には森琴石の作品が少なからずあるだろうと推測したのです。
 ※追悼宴=平成16年8月【1】注1 及び 記念写真


井上保氏の情報、戸籍謄本、北村氏の葉書、『森琴石先生 薦事図録』などを元に、鯖江の鯖江市資
料館・万慶寺、福井の福井県立美術館・北村家へと調査を進展させて行きました。
これらは「お世話になった方々」の項で ご紹介させて頂く予定です。

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