013年12月24日 更新
年賀のご挨拶を遠慮させて頂きます
喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます。
母米子が8月23日に95歳で永眠いたしました。
本年中のご芳情を厚く御礼いたしますとともに明年も変わらずのご協力、ご支援のほど、お願い申し上げます。
※母米子の実家「米村家」の事
『曽根崎から大阪市電』(鎌田伊太郎著/関西書院/昭和43年)に、母米子の実家、大阪西天満の料亭「米村家」が記載されています。
※新項目設置
来春より
まだ未紹介の「森琴石・響泉堂」が登載する書物をご紹介する項目を設けます。
第1番目に『曽根崎から大阪市電』をご紹介しますが、『曽根崎から大阪市電』には、大阪市北区の森琴石の屋敷についても記述されています。
訃報
飯田知子氏
●森琴石長女「昇」の孫
(森琴石長女「昇」の次女「加津」の次女)
●「加津」の遺品…森琴石の下絵、資料を多数受け継ぐ
⇓
森琴石研究に多大な貢献
●7月末夫が急逝
●夫の身辺整理後、体調を崩し検査入院
●闘病1か月余りで急変
■去る12月7日の早朝、森琴石の大量の<下絵>や森琴石の<日誌>、<中国書画家との筆談記録>などを提供頂き、森琴石研究に多大な貢献を頂いた、東京都の飯田知子氏が77歳でご逝去されました。
■飯田知子さんは私共の祖父「森雄二」の養女となった「森 加津(旧制堀木)」の次女でした。
●「堀木 加津」は、明治44年1月、森琴石長男「森 雄二」の養女となりました。
●加津は私共の父「寿太」の母「兎免(通称梅子)」が、明治44年5月に死去する4か月前の1月
17日に雄二の養女となった。寿太3歳2か月の時である。
病弱の母との早い別れを憂い、寿太が寂しく無いようにとの配慮で、寿太の姉として森家に
迎え入れたようです。
■「加津」は1男2女を儲けました。飯田知子氏は加津の2女でしたが、結婚後、母加津が住んだ住宅を継がれ、加津が遺した森琴石に関する資料類も知子氏が受け継がれたのです。
■知子さんの母「加津」さんは、森琴石とは永らく一緒に暮らし、祖父森琴石を大変尊敬
した方だったそうです。
■「加津」さんが遺した森琴石の資料類は、知子様ご夫妻が住宅の建て替え時に
「処分しようか、しまいか?」と、随分悩まれたそうですが
「母が大変大事にしていたもの」だからと、残す事にされたそうです。
これらの資料が森琴石調査に於いて大変貢献する事になったのです。
■知子さんは、母「加津」から森琴石の話を折に触れ聞いておられたそうです。
その為、お母様譲りで森琴石への敬愛心は非常に強かったようです。
※「森 加津」については、森琴石HP「資料紹介:日誌2」をご覧ください
■私が夫隆太のいとこ飯田知子さんと親しくお付き合いさせて頂くようになったのは、平成10年(1999年)の秋からでした。
知子さんは長年勤めていた「中高一貫教育の進学校」の数学教師を退職後に住居を建て替えされたとか。
私共が飯田家にお伺いしたのは、建て替え後あまり年月が経っていないころで、森琴石の事を調査する時期としては絶好のタイミングだったようです。
(知子さんとの交流の経緯は「お世話になった方々」で近々ご紹介の予定です)
■以来、知子さんとは企業に勤め日々多忙を極める夫より妻である私の方が、親しくお付き合いさせて頂く事になりました。
■知子さんとは、「森琴石」がどのような画家で、どのような人生を辿ってきたのか、森琴石の業績や人間性を立証していきたい…という共通の目的がありましたので、私達が打ち解けていくのにさほど時間はかかりませんでした。
初めてお会いしてから今年の秋で丸14年経過致しました。
■知子さんとの思い出は尽きなく、昨年は今回の出来事(急逝)を予測するかのように、春と秋に2回お会いする機会がありました。
●去年の4月初め私共夫婦が東京に行った折、護国神社へ祖母梅子の実家<入江家の墓参>に同行して頂きました。原宿散策、在東京時に住んだ代々木八幡訪問に「是非ご一緒させて」という知子さんの希望で、食事やお茶を共にし、お喋りしながらの散策等、非常に楽しい時間を過ごしましたのです。
●10月末には和歌山に行き、和歌山城、県立美術館(熊田司先生が館長)、紀三井寺、紀州東照宮などの名所旧跡を見学しました。その時の知子さんの健脚振りに私共夫婦は非常に驚いた事でした。これが知子さんとの<最後の思い出>となってしまいました。
■7月末に最愛のご主人を亡くされ意気消沈の知子さんに、少しでも気が紛れればと、10月の初め、関西大学での七絃琴の演奏会や、大阪大学博物館訪問(橋爪節也先生が館長)を提案してみました。
その時は「出来る限り行きたい」とのご意向でしたが、
10月半ば「体調が悪いので検査したら膵臓がんだった。入院して今後の治療法を考えて頂いている最中です。そのため大阪には行けそうにありません」
と、病院からお電話を頂きました。
■その後、病状が気になるのでご自宅にお電話するもご不在、入院されたようでした。
知子さんご夫妻にはお子様も無く、携帯電話、パソコン、FAXは持たない主義の方でしたので連絡を取る方法が無いのです。
■11月20日過ぎ、ご自宅にお電話したところ、たまたま帰っておられました。
私は膵臓がんの知識も余り無く、病状がそれほど深刻なものでは無いと思っていました。
知子さんは毎日の出来事を数行、日記のようにして書き留めておられるのを知っていましたので
「間もなく森琴石HPの お世話になった方々で知子さんの番になります。つきましては、知
子さんとあちこちご一緒した場所、年月日を書き出して頂きたいのです」
と、お願いしたところ、
「今、週に3日入院して抗癌の点滴治療をしているが、この点滴が本当に辛い。点滴が終っ
た後は身体がしんどくてしんどくて、頭は冴えているのだけど何をする気力も起こらない」
と。
そこで私は
「点滴をしなかったらどうなるのですか?」とお訊ねすると
「死ぬのよ!」と、衝撃的な言葉が返ってきました。
「癌に効くというのはそれだけ身体には負担がかかるみたい、こんな状態だから(日記
から必要な日にちの書き出しは)とても出来ない。私の事は適当に簡単に書いてくれればそ
れだけで十分だから…」とおっしゃったのです。
私は余りに驚き、返す言葉も見つからず、
「早く良くなって色々なところに行きましょう! そのことを励みに治療を頑張って下さ
いね」と、お電話を切りました。
その後、知子さんとの会話が始終頭から離れませんでした。
そして2週間も経たない内に、知子さんはあっけなく仲が良かった同い歳のご主人の元へと旅立たれたのです。
■知子さんはさっぱりとしたご性格で非常に聡明な方でした。
私は人生の大先輩である知子さんを<腹の内を探る必要が無いざっくばらんな>お人柄が大好きでとても尊敬していました。
知子さんは、森琴石の身内の中でも「森琴石」への敬愛心が誰よりも強い方でした。
森琴石の数々の業績が知れ、森琴石の高潔な人柄が分かるに連れ、我が事のように喜んで下さいました。
森琴石の調査を続けている折、時には辛いと思う事が多々ありました。
そのような折、知子さんの存在が私に勇気や希望を与えて下さっていたのです。
私は知子さんを非常に頼りにしていましたので、もうあの知子さんはこの世におられないのだと思うと、辛さと悲しみに打ちひしがれ、現在何をする気力も有りません。
知子さん
これまでのお付き合い本当にありがとうございました
天国でご主人様やお母様、そして琴石様にお会い出来たのでしょうか?
どうか心安らかにお眠りください
来年
「お世話になった方々―森琴石ひ孫:飯田知子氏」で
知子氏との調査訪問先についての諸々をお伝え致します。