関連資料に「らんだむ書籍館 より」を追加しました

 

2014年3月10日 更新

 

 

(明日3月11日は、東日本大震災から3年になります)

東日本大震災により被害受けられました多くの皆さま

また被災地所縁深いご関係皆さまに、心よりお見舞い申し上げます

被災地皆さまの安全とご健康と、一日も早い復興心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

関連資料に「らんだむ書籍館 より」を追加しました。

 

「らんだむ書籍館」
 101冊の書物を取り上げ内容を紹介
10
年8か月の長きに亘り連載されました

●松戸市の小林昭夫氏は、自身ご所蔵の書物を10年8カ月の長きに亘り紹介されてきました。
●小林氏は、文学全般から古典や漢文学に至るまでの多岐に亘る101冊もの書物を取り上げてこられました。
●これらの書物の内容紹介や解説をこなしてこられたのは、氏がそれまでに蓄積された幅広い教養、豊かな知識、深い洞察力があればこその大業と思われます。
●凡庸な私共には少々レベルが高いと感じましたが、文学好きな方や文学の勉学を目指す者にとっては知識を得る絶好の場だっただけに、「らんだむ書籍館」の閉鎖は非常に惜しく残念に思います。
●森琴石ホームページでは、せめて“森琴石”や“響泉堂”を取り上げて頂いたところだけでも、教養遺産として残して置きたいと、ホームページの管理をして頂いている㈱アズマ様のご協力を頂き、「らんだむ書籍館」での該当データを森琴石ホームページの為に移管させて頂きました。

 

小林昭夫氏
文学の達人は理系頭脳のジェントルマン
◆小林氏の経歴はお聞きした事がなかったのですが、私が推測するには大手企業の技術系の職業に就かれ、退職後はご趣味の文学の研究を良くされ、公益財団法人<無窮会>に所属、度々その研究会で研究発表をされています。会誌「東洋文化」には論文が収録されています。
小林氏は幸田露伴の研究に励まれていたようで、露伴に関する論文が多いようです。
    l   幸田露伴の『釁考』を読む  H18年9月
 l   露伴のモンゴル史研究 H21年10月
 l   『烈祖成績』の刊行経緯 H22年10月
 l   露伴『血紅星』の周辺 ―異色の漢詩人との関わり― H24年3月

◆我が家にも上記論文の<抜き刷り>冊子を何冊か送って頂きました。
◆無窮会の事についてインターネットで調べてみますと、代表理事、理事長代行という肩書の方に「頭山興助」の氏名があります。この方は「頭山満」のお孫様のようです。
私の父はこの「頭山満」という方が好きだったらしく、実は私の名前は、この方の「満」の1文字を取って「満代」と名付けたと父から聞かされていました。
余談ですが「みつよ」は17歳年上の姉が考えた名前で「美津代」としたかったらしいですが、父が
それならば「満代」が良いと主張、家族内でしばらく意見が分かれたとも聞きました。

◆頭山満はアジア主義者の巨頭で玄洋社の総帥だった方です。森琴石の調査過程で、森琴石の交流者にはこの玄洋社に所属していた「山崎登」以外にもどなたか存在したと記憶しています。このような事からも時代を超えたこの現代でもご縁があるように感じています。

ホームページが取り持つご縁
◆2003年4月…小林氏の「ランダム書籍館」がスタート、一か月後の5月…「森琴石のホームページ」を公開、9月…小林氏の「らんだむ書籍館」に『絶句類選評本』が登載。同著が<響泉堂刻の銅版小型本>という解説がありました。
◆当時の私は<響泉堂刻>の書物を探すのに夢中で、インターネットや古書目録などで丹念に調べていました。
◆「らんだむ書籍館」を拝見し『絶句類選評本』が響泉堂刻と知り、早速この情報を携え熊田先生の元へと赴い
たのです。
◆当時大阪市立近代美術館建設準備室は大阪市役所の中にありました。市役所は大阪府立中之島
図書館と隣接していた為、書物を探し調べ物をするついでに熊田先生や橋爪先生にお会いし、情報交換をするのには非常に好都合だったのです
熊田先生にプリントアウトした「らんだむ書籍館」の小林氏の文章をお見せしたところ、この書誌の存在は既にご存知でした。内容を読まれ「銅版印刷の説明が少し違っています」と、具体的な事を指摘されましたので、内容をメモしておきました。
後日、森琴石ホームページに『絶句類選評本』の書誌情報を是非とも掲載したいと思い、思いきって小林氏にメールを差し上げ、リンク依頼と共に先日熊田先生がご指摘された件をお伝え致しました。
◆それほど日が経たない頃、小林氏より「調べてみましたら、ご指摘の通りでした」とのお返事がありました。更には森琴石ホームページから「らんだむ書籍館」へリンクさせて頂く事もご快諾頂いたのでした。
その後、私は少しでも森琴石を知って頂きたいと、森琴石の著書や響泉堂刻書誌一覧など、PCへ入力し
た資料を送信させて頂きました。
◆以来、小林氏は「響泉堂」刻書物や、森琴石の存在を心がけて下さったようです。
後月たまたま取り上げる予定の書誌の中に森琴石の名前があっただけかも知れませんが、同年11月「東洋絵画叢誌」第二集、12月には藤岡作太郎 「近世絵画史」が紹介されたのでした。

多数の情報をご提供頂く
その後は、小林氏からは再々にわたり情報を頂戴致しました。
頂いた情報は森琴石との新たな交流者の発見に繋がりました。

 失意の折の助け舟
◆平成21年11月、私共の不注意で外付けハードディスクが損壊、PCやITの知識不足の為、それまでに取得した資料をPCへ打ち込んだデータ類を殆ど消失する事態に見舞われました。
その時の衝撃は、今でも思い出したくも無い「悪夢」としてよみがえって参ります。
◆22年のお正月、栃木県真岡市の渡辺淑寛氏から頂戴した年賀状には「非常に残念でしたね、しかし森ご夫妻ならどなたかが手を差し伸べて下さいますよ!」と、慰めの言葉を綴って下さっていました。
◆22年1月のある日、小林氏からメールを頂戴致しました。
「さぞ落胆しておられるでしょう、何か出来る事は無いかと思い、森琴石HPにある漢詩に気になる部分があるので、それを読み解いてみました。」とメールを頂きました。
それが森琴石 調査情報【平成22年 1月】 です。
資料:詩賛1」にある<森琴石断髪、弾琴図>の賛にある<撫松>が、作品の元持ち主で、兵庫県揖保郡龍野の詩人「永富撫松」では無いか?という内容でした。
永富撫松は、大手建築会社「鹿島建設」創設者「鹿島守之助」のご子息だったのです。

それはもう嬉しくて嬉しくて・・・・。
すぐさま永富撫松に関する情報を図書館で得、書物を購入。後日、国の重要文化財として公開されている「永富家」へと馳せ参じたのでした。

漢詩、賛などの読解を多数手がけて頂きました
率直で誠実・・森琴石の面影を感じるお人柄
◆その後、下記にあるように度々に亘り森琴石の旧蔵品で<読解>が厄介とされるものを手がけて頂きました。
◆さぞご迷惑だっただろうと思いますが、極めて率直に誠実に対応して頂きました。
小林氏とはお会いした事も無くどのような風貌の方かも存じませんが、ホームページの件で小林氏とメールでやりとりさせて頂いていますと、何故かいつも「琴石」の面影が浮かんでくるのです。
◆琴石のように「俗気が無く率直」、そして「精神性が高い」…何事につけても哲学を持って臨まれている方と尊敬しております。

 

森琴石調査の大恩人
森琴石調査を15年間余り続けてつくづく感じる事があります。
若い時にもっと勉強しておくべきだった!  と。

江戸末期~大正期の文人(画)を調べるには、まず当時の資料である「文書 もんじょ」が読めないと調査を進める事はできません。文字(漢字や仮名、その崩し字も)が正確に読める事、画中の賛を理解するには<文人画の故郷>である中国古来からの諸々の知識が必要だという事です。文章の理解力も不可欠です。

文人画を真に鑑賞するには 画賛一体で理解する必要があります。
森琴石調査では、森琴石が三絶と言われる<詩・書・画>の詩・書の解読がなかなか思うように進めませんでした。
そのような折、小林氏から思いがけない”救いの手”を頂いたのです。
小林氏は、まさに<森琴石調査の大恩人>の方です。

 

 

 

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