森 琴石・・・・明治27年頃の足跡か?

2011/12/5更新

森琴石の明治27年頃の足跡資料がありました

場所:愛媛県伊予・「彩浜館」
出典:『伊予市誌』・・・・平成17年・伊予市誌編さん会編
資料ご提供=伊予市教育委員会、沖野新一氏


資料内容 

二、伊予市保管の絵画・工芸品 

「絵画・扁額一五点」

これも彩浜館に保管されている。深田直城、名草逸峯、森琴石、三宅呉暁ら、明治画壇中の新鋭一五画伯が彩浜館に来遊した時に描いたものである。
・・・・・と書かれ、深田直城「雁」、画者名無し「白さぎ」、名草逸峯「牡丹」の3点の画が添えらている。

備考
★彩浜館=明治27年、道後温泉に三層楼の立派な建物が出来た。これに負けじと同年、郡中町の有志により集会所として五色浜に建てらたもの。 木造寄棟造り。
日露戦争時には、松山に収容されたロシア人捕虜将校を接待した。平成元年に改築、現在は伊予市で展示会などの施設として利用されている。

★三宅呉暁=元治元年3月1日生。京都で生まれた。名は守広、通称清三郎。
四条坡の森川曽文に学び、京都私立日本青年絵画共進会の審査員や後素協会の委員となるなど、京都画壇の主要作家として活躍た。内国勧業博覧会や海外の諸博覧会に出品し、文展などで受賞。京都市美術工芸学校で教えた。大正8年8月26日歿。56歳。(byコトバンク他) 

★名草逸峯(逸峰)=文政4年紀伊で生まれた。名は芳太郎。
京都で小田海僊に学ぶ。天下の志士と交わり勤皇譲位を唱えた。
後豊後(大分)に私塾を開き、傍ら医業を学んだ。
明治4年備後加茂郡竹原に本籍を移し、その後広島寺町徳応寺に寓し、絵を教授した。
明治22年(1889)歿、69歳。(by コトバンク他)

★深田直城=文久元年7月14日近江(滋賀)で生まれた。。本名は政孝。別号に秋月。
森川曾文にまなぶ。内国勧業博覧会,全国絵画共進会に「鳴門図」「鮮魚」などを出品。
明治40年正派同志会展審査員となる。
大阪に住み日本美術協会会員、大阪絵画会会員として後進を指導した。
昭和22年死去。87歳。(by コトバンク他) 

メモ
●足跡の年を<明治27年頃>とタイトルで書いたが、その根拠は彩浜館が出来た時、落成式の賓客として地元名士達に招待されたのでは?と、考えたからである。

●森琴石と深田直城とは会派を超えた親交があった。
森琴石は正派同志会の評議員をし、直城の大阪での活動拠点が日本美術協会や大阪絵画会である事など、森琴石とは画家としてのいき方を理解し合った間柄だったようだ

森琴石は、美濃焼き窯元家への染付け指導の後継ぎとして、深田直城にその任を譲った。

●名草逸峯の師匠小田海僊は森琴石の師匠「忍頂寺静村」の師でもある。森琴石は備後竹原には度々訪問している。

●「調査情報:平成16年1月で記述の他、砥部焼きの窯元での足跡があるなど、森琴石は伊予へは度々訪ずれている。森琴石が交わした中国人との筆談にも伊予の地名が出てくる。

問い合わせ
伊予市教育委員会によれば、これらの15点の書画は現在彩浜館にはなく、15点の内2点が他の場所に保管確認されているとの事。

名草逸峯は明治22年に歿している事から、名草逸峯の生存中には彩浜館はまだ存在しない事、他の14名の画家氏名、現在の保管場所など、今回の問い合わせをきっかけに今後調査を進めていきたいとの事でした。

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