米津菱江(別号方舟)=名「楢三郎」=同志社出身、ハワイでも布教=『新島襄全集9 来簡編(1)』亀山昇の書簡

2022年12月10日  更新

 

米津菱江(別号 方舟)
名「楢三郎」
同志社出身、ハワイでも伝道に尽力

『新島襄全集9 来簡編(1)』
亀山 昇➡新島 襄 の書簡

 

森琴石周辺には
 基督教創設に係わった人物多数
・・・・最新情報・・・内田尚長は尼崎教会の伝道者
 新島襄の信奉者多数

 

 

 

米津菱江(別号 方舟)、名は楢三郎(ならさぶろう)

■南画では、森琴石と同門であるが(師匠=忍頂寺静村)、銅版画では森琴石が営む{響泉堂 銅版工房 }の弟子だった。
■米津菱江は、別号方舟(ほうしゅう)とも称しました。
聖書にある「ノアの方舟 はこぶね」に由来すると思われます。
■米津菱江は、大阪で最初の教会「浪花教会」の創設メンバーだった事をご紹介致しました。
森琴石とキリスト教:ニコラス・マクラウド著『日本古代史要約 挿図集』…森琴石,肖像画を担う  | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)
■米津菱江は、和歌山県の、新宮教会の創設に関わっていた事も判明しています。
■菱江が本名とは思えず、キーワード「米津・浪花教会」でネット検索をしたところ、グーグル書籍検索結果『『新島襄全集9 来簡編(1)』に、<亀山昇が新島襄に宛てた書簡>に情報があり、菱江の名は「楢三郎」である事が判りました。
■書簡の内容には、更に貴重な情報がありました。
■資料を<取り寄せ出来ないか?>と、調べましたが、我が家に近い図書館では取り寄せが不可能な書物でした。。
■以前、西宮市の熊田 司先生(美術史家・元和歌山県立近代美術館館長)から「10年~20年前に取得した、米津方舟の画があります」と、お知らせ頂いていた事を思い出し、新島 襄の書簡の存在をお伝えしたところ、早速該当資料の画像を送信して頂きました。今年(2022年)2月の事です。
■新島襄宛の書簡からは、次のような事が分かりました。
・米津菱江の本名は米津楢三郎 である
・米津楢三郎は、浪花教会で将来を託された有望な青年であった
・同志社に3年通学していた
・渡米を志し、その資金を蓄えていた
・・・秋田で、土居豫通の下で教授し、渡米の準備をしていた

■今年9月、期せずして響泉堂刻の資料が熊本に存在する事が分かりました。その調査過程で、新島襄の信奉者で、熊本バンドのメンバー<亀山 昇>の名が浮上して参りました。熊本県立図書館…赤星家文書 [響泉堂出版] ・・・8点所蔵
■森琴石周辺には、日本で最初に聖書を翻訳した「永田方正」がおり、新島襄の信奉者が多数存在しています

■日本での聖書は、最初 漢文で翻訳し、その後和訳されたと聞いています。
■森琴石周辺のキリスト教関係者は、和・漢・洋・蘭の語学や教養に秀でた人物が多く、銅版書誌などを通して早くに西洋文化に接する機会が多かったと思われます。
■森琴石はイギリス人(スコットランド)の宣教師 ニコラス・マクラウド著日本古代史要約 挿図集』で、幕末~維新の要人の肖像画を銅鐫した。
■森琴石は、日本で最初に発行された翻訳小説=ジュールン・ヴェルヌ著『月世界旅行〈九十九時二十分間・井上勤訳〉』の挿画を担っている。
■熊田 司先生からは、米津菱江に関する他の資料を頂いております。
我が家には米津菱江の掛け軸を一幅所蔵していますが、これらは別の機会にご紹介させて頂きます。

響泉堂書誌 聖書にも及ぶ
『新約書伝』…「キリスト誕生図」は森琴石刻 | 森琴石 What’s New (morikinseki.com)
塾生「河村学而・米津菱江」=明治初期 大阪のキリスト教会創設メンバーだった
森琴石塾生「河村学而」=成瀬仁蔵の妻の叔父
森琴石塾生「米津菱江」=画家、教材製作、宣教師として活躍

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資料画像 ・・・・・・ 
『新約書伝(明治13年)』口絵
響泉堂刻 キリスト誕生図
熊田司氏蔵
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『新約書伝』  口絵‐耶蘇誕生図‐(明治13年)

明治10年4月、森琴石妻”ゑい”葬儀録内   塾 河邨学而 米津菱江
塾生 右頁左端=米津菱江            (河村学而)

9 焼香順② 河邨 米津 吉川  

 

森鍬蔵~森琴石へ(宛先 大坂南本町四街目銅版製造所)
                                      (書簡翻刻=槇村洋介氏=飯田市美術博物館)

 

米津菱江《鸚鵡図》

熊田 司 氏蔵
1887年(明治20年)…和歌浦で描いた
絹本着色 96.0×32.8㎝

米津菱江《鸚鵡図》1887年

 

『遊行する牧者 辻蜜太郎の生涯』
(杉井六郎著・啓文館・1985年9月) 

表紙
左 謹呈
2021年、古書購買時に挟んだあったもの    68,69頁
                       米津楢三郎=左頁の行に名
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1882年=明治15年2月3日)

    

   286頁
    米津楢三郎(同志社出身にて米国より参られし人)
・・・・・布哇(ハワイ)新聞 明治26年10月6日

 

   

 

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『新島襄全集9 来簡編 下』

画像ご提供=熊田 司氏

 

表紙               

 

右より 徳富猪一郎、田中不二夫、882 亀山昇

右より 亀山昇(続き)、西毅一、徳田利彦


翻刻
(間違いがあるかもしれません)

新島襄全集9 来簡編 下
1994年9月25日 初版第一部印刷
1994年10月1日 初版第一部発行
編集者 新島襄編集委員会
発行者 今田 達
発行所 株会社同朋舎出版

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亀山昇の書簡
(翻刻文)

882 四月十日

亀山 昇
    ⓵大坂西区土佐堀裏町三十三番地 ②西京市 ③墨

向春之砌尊体如何、久しク御安否モ伺ひ申サズ御無沙汰申居候、御許容被下度、私儀主之御恵恩ニヨリ無恙碌々消光罷在候間、何卒御休意被下度、且ツ主之好役者トナリ得ル様御祈祷之節記念被下度候、偖テ当米津楢三郎氏ハ以前同志社ニアリ三年間修学致タル人ナルガ、目下浪花教会ニ属シ居青年中望ヲ属スベキ人物ニ御座候ガ、兼テ脩学之為メ洋行之希望アリタレドモ、方法ヲ得ズ困り居ラレタル処、昨年三月断然当地ヲ去リ秋田ニ至リ土居通予氏之世話ニテ其校之教授ヲ務メ多少之金員ヲ得タレバ今回是非トモ素志ヲ貫キ度トノ事ニテ、先ズ米国ヘ向ケ発途之望ミニ御座候ガ何分先方ニ一ノ知己モ無キ事故、相成ルペクパ先生之御知己之人ニ御紹介ヲ願被下度ト之事ニ御座候、目下同氏之位置ニシテ洋行ハ賛成致ベキヤ、或ハ今少シ金員ヲ得タル後之方ガ宜シキヤ、先生果シテ御賛成ナル哉存じ申サズ候得トモ、若し御同意被下候ハバ、何卒然ルベク御世話被下候様奉希候、右御依頼迄、草々不備

四月十日 亀山 昇
新島襄殿

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人物紹介

新島 襄(にいじま じょう)
プロテスタントの教育者。上州安中藩士の家に生まれ,漢学・蘭学を学び,漢訳聖書を読んで感動。欧米文明とその宗教を学んで日本にもたらそうと1864年脱藩渡米,キリスト教に入信し,理学・神学を学んで帰国した。1875年同志社英学校(同志社大学の前身)を創設,キリスト教的自由自治主義の教育で多くの青年を感化した。とくに,熊本洋学校に学んで同志社に入学した小崎弘道,海老名弾正,徳富蘇峰らは〈熊本バンド〉として著名。組合教会の指導者としても貢献。  百科事典マイペディア

亀山 昇 (かめやま のぼる)
熊本バンド
明治初期に熊本洋学校の生徒が結成したキリスト教徒のグループ。米国人教師ジェーンズの感化を受けた海老名弾正徳富蘇峰ら35名が明治9年(1876)、熊本城外の花岡山に集い、信仰を守り広めることを誓約した。後、その多くが京都の同志社英学校に移り、熊本バンドと呼ばれた。横浜バンド札幌バンドと並んで日本のプロテスタントの三大源流の一つとされる。(デジタル大辞泉)

熊本バンドと亀山昇
1862年、肥後国八代に武士階級の子として生まれた亀山は、熊本洋学校でアメリカ人教師L.L.ジェーンズの感化を受けて、15才にして「花岡山」の誓いに加わった。
35名の若者が、そこでキリスト教をもって「人民の蒙昧を開く」旨の誓約を行ったのである。
後に同志社英学校に入学したこの一群を称して「熊本バンド」というが、海老名弾正や徳富蘇峯らを含むこの信仰連帯集団において亀山は最年少であった。

同志社では校祖新島襄の人格に深い感化を受け、1884年にこれを卒業した後は、在学中からの伝道地であった倉敷に天城教会を設立し仮牧師を務めている。
その後、1886年、沢山保羅(日本で始めて按手を受け牧師となった人物。
対して新島襄はアメリカで按手を受けた宣教師であった。
浪花教会創設者にして初代牧師。また梅花女学校の創設者としても知られている
辞任後の浪花教会で仮牧師に就任、教会を牧しつつも、同教会による枚方などでの伝道活動に参加する。
翌年に安田サイと青年会館(大阪YMCA)で結婚するが、その翌朝には沢山保羅の死の知らせが教会を襲い、その後も自身の病といった試練の時を経て、彼は1889年4月に浪花教会を辞任している。
そして1890年、大津教会設立にあたり按手礼を受けて彼は牧師となり、大津を拠点としつつも、長浜、彦根、綾部などで伝道活動を行ったのであった。

                後半 略します

亀山昇牧師について – 日本キリスト教団大津教会 (sakura.ne.jp) より 転載させて頂きました.

 

土居通豫(どい みちまさ)
明治大正期の漢詩人
生年 嘉永3年8月18日(1850年)
没年 大正10(1921)年12月13日
出生地 土佐国高岡郡佐川(高知県)
別名
名=通予,字=子順,通称=寅五郎,別号=払珊釣者
経歴
各任地での詩文人と交流し詩名を高め、のち随鷗吟社に参加、やがて森槐南のあと社務をとった。
850-1921 明治-大正時代の漢詩人。
嘉永3年8月18日生まれ。逓信省にはいり,東京郵便電信局長などをつとめる。
森槐南
(かいなん)のあとをうけて随鴎吟社を主宰,雑誌「随鴎集」を編集した。
編著に「白洋詩濤」「海南義烈伝」「氷海晴雨」「仙寿山房詩文鈔」(全6巻)がある。
大正10年12月13日死去。72歳。土佐(高知県)出身。
本姓は越智。名は通予(道豫=みちまさ)。字(あざな)は子順。通称は莞爾,竜輔。
(コトバンク より)

※備考
随鴎集」には、森琴石門下執行宗雄の漢詩が収録されている

ご参考
日本基督教団 秋田楢山教会ディサイプル派の浸礼を受けない者は救われないという教理に異を唱えて、南秋田郡長 土居通豫(組合教会員)宅に講義所を設けたのが1888年
(日本基督教団秋田楢山教会 | 秋田 | 史跡案内 | 天上の青 (tenjounoao.com)

内田尚長=響泉堂刻の著者尼崎教会創設に関わる
(図說尼崎の歴史: 尼崎市制九〇周年記念 : 新「尼崎市史」2007 · ‎ 48 頁)
... の大阪浪花教会員が伝道活動を行なって以降は、同教会の伝道地となりました。明治一九年には三人の尼崎町民が洗礼を受け、二五年には浪花教会の講義所が伝道教会に昇格します。この教会に明治二九年三月に赴任したのが、
伝道師の内田尚長だった


内田尚長が手掛けた<響泉堂刻書誌>

『頭書熟字 袖珍無双玉篇』
内田尚長著 1878年(明治11年) 

『増輯詩韻含英異同辧』 天,玄,黄
劉文蔚,内田尚長,太田武和,彭元瑞,任以治,蔡應襄
勝村治右衛門 : 神先宗八 : 藤井孫兵衛 : 辻本仁兵衛  1879(明12)

詩韻含英 』卷10-14,卷15-18
劉文蔚輯 ; 内田尚長増輯 ; 太田武和閲 勝村治右衛門 ほか 1879(明12)

『新選幼学便覧』
編輯兼出版人=内田尚長
発兌書肆=岡田茂兵衛・森本太助・塩冶芳兵衛・樋口栄二郎・1879(明12)

『新選幼学便覧』(再版)
 編輯兼出版人=内田尚長、発兌書肆=浜本伊三郎・風月庄左衛門・田中太右衛門・岡本仙助・
片野東助・川瀬代助 1891(明26、4)

(データ=国立国会図書館・『森琴石作品集』ほか)

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亀山昇 前後の書簡

880 三月三十日
徳富猪一郎
⑤森中章光写(孔版)
 粛啓、春暖相催し候処、先生愈御多祥奉大悦候、陳れハ
此度カコシマの人鵜飼吉治氏御校ニ入学の為御地ニ罷リ
越候ニ就てハ、何卒先生の懇篤なる御示教ヲ辱ふし度精神
の由ニて小生へ右紹介依頼ニ相成候間、一書如此御座候、草々 頓首
三月三十日  徳富猪一郎
襄先生
・・・玉座下

881  四月九日
田中不二麿
⑤写真
拝披、バイブル教授之件ニ付、懇縷御陳述之趣ヲ領シ候、然ルニ自今之情態ニてハ鋭意進取候てハ多少之妨碍ヲ来シ、却而退歩之恵ヲ可醸も難量候間、先ハ従前之如ク徐々御着手之方遂ニ者進歩之影況ヲ可現出与相考申候、ハルテー氏云々も御尤之事ニて小生おゐても素より記憶スル所ニ候へ共、何分前項ノ如キ現状ニて来タ断然適施スルノ線度ニ不至候間、漸進誘駅掖ノ方可然候条、此旨御諒了相成度書不尽言、草々布復

四月九日                              不二麿
新島君

追申ハルテー氏ニも貴下之困難ノ秋ニ際シ困難ノ地ニ立、彼ヲ斟ミ此ヲ量リ施設宜ヲ得、拮据勉力之段ハ備ニ知悉相成候事ニて、小生彼地ニて会晤之節毎々該氏其他へも詳く話及候事ニ候、此旨任序添陳候也

 

883 四月十六日
 西 毅一
      ⓵備前岡山 ②西京寺町通丸太町 ④墨
過日者電報幷ニ御書翰を以て嵐山之旧花之御催し御案内被下難有奉存候、然ル処野生折節之うつ病再発臥褥、執筆も難渋之処より拝答も延行ニ相成リ不敬真平御海涵可被下候、漸ク本日ハ押而執筆御礼御詫旁如此ニ御座候、草々頓首

四月十六日  毅一
新島先生
 侍史草々

 

884 六月一日
 徳田利彦
   ④墨 ⑥端裏書 新島筆
拝啓、御清適可被成御坐奉恭賀候、陳ハ貴地Edmund Buckley氏より桑港払壱百弗ノ手形当店へ送付相成、同金額ノ中ニ而龍動幷ベルリン払為替取組呉候様依頼相成候、然ルニ同氏且其手形振出人モ一向承知不仕候間、右依頼謝絶可仕心得ニ御坐候処、更ニ取調候ニ同志社ニ御雇入ノ教師ニ有之候趣、果シ然ラハ決而不都合ナル間違等ハ有之間敷ト相信、請求通倫敦及ヘルリン払ノ手形ヲ作リ、別紙ニ封入御手許迄差出申候、果シテ同氏ハ同志社ノ教師ニシテ確実ナル人ニ有之候ハバ、御手数恐縮ノ至奉存候得共、右御書翰御渡可被下、若御承知ノ人ニ無之候ハバ、御返送可被下様ニ奉願上候、頓首

六月一日 徳田利彦
新島襄様
侍史

再伸、バークリー氏ヨリノ書翰ニ単ニ京都梨木町ト而巳有之、委細ノ宛名無之不安心ノ廉も有之候、旁御手許迄差出申候
敬具

徳田俊彦

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徳富 猪一郎(とくとみ いいちろう)=徳富蘇峰
1863‐1957(文久3‐昭和32)
新聞人,文筆家。名は猪一郎(いいちろう)。蘆花の兄。肥後国水俣の郷士の子。熊本洋学校をへて同志社に入り,新島襄の薫陶をうけ,一度はキリスト教の洗礼をうけるが,1880年同校を中退し郷里へ帰る。

熊本では自由民権の結社相愛社に加盟し,政談演説や新聞編集に従事するが,82年より自宅に大江義塾を開き,自由主義を標榜した実学教育を行う一方,いくつかのパンフレットを自費出版し,文筆活動に入る準備をする。この間,東京や高知に旅行し板垣退助,中江兆民,田口卯吉らの知遇をえる。(世界大百科事典 第2版)

田中 不二麿(たなか ふじまろ)
1845(弘化2)-1909(明治42).
愛知県名古屋市出身.教育行政家,政治家.
明治初期,無料制国立図書館を設立した.尾張藩士から文部省理事官となり,岩倉使節団に随行,帰朝後,欧米の教育制度を紹介した報告書『理事功程』(1873)を刊行.
その中に公共図書館の記述がある.文部省で文部大丞を務めた時期,太政官博覧会事務局に移管されていた書籍館を文部省に名称復帰させ,
1875(明治8)年に東京書籍館を創設,無料制を実現した.
1876(明治9)年に米国建国百年祭に出席,
『合衆国公共図書館特別報告書』をもとに米国の図書館事情を報告した.
1879(明治12)年自由主義教育令を制定したが,翌年司法卿に転出させられた.
その後,司法大臣,駐伊大使,枢密顧問官などを歴任.(
図書館情報学用語辞典 第5版)

西 毅一(にし きいち)
天保14年生。岡山藩家老池田隼人の家臣霜山徳右衛門の長男。字は 伯毅、幼名久之助、号薇山。父に従い大坂に出、篠崎訥堂・後藤松陰に学ぶ。帰郷して森田節斎 の門人西後村の学僕となる。後村の養嗣子となり西姓を称した。歿後は森田節斎の学僕となる。  明治3年上海に渡り英語を習得して帰朝。岡山県惨事・東京上等裁判所判事などを歴任。 明治12年再び清国に渡り文学研究に励んだが、まもなく病気にかかり帰国。閑谷学校 (しずたにがっこう)の校長や、同校の育英に尽力。士族授産のため「微力社」を設立 経営するなどもした。明治37年歿。 (平成6年山陽新聞社刊「岡山県歴史人物事典」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

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